その時歴史が動いたDVD<特別回>戦いその決定的瞬間~日本NHK纪录片 

 

日本NHK纪录片

日本语世界--影片介绍

その時歴史が動いた  DVD

<特別回>
「その時歴史が動いたスペシャル」
~戦いその決定的瞬間~  

松平定知 アナウンサー
番組概要
 
歴史上、幾たびとなく繰り返された合戦・戦争。戦いの中で男たちは、女たちは、どのような人間ドラマを繰り広げたのか。
第1部では、勝利の時をつかんだ武将や軍人たちの決断の瞬間を描く。
 織田信長が命をかけた捨て身の戦術で戦った姉川の合戦。新選組・近藤勇が不利な人数にも関わらず迷うことなく突入を敢行した池田屋事件。そして連合艦隊司令長官・東郷平八郎が、一瞬のタイミングのずれも許されない戦法でのぞんだ日露戦争・日本海海戦。その他数々の戦いの決定的瞬間で、男たちが下した決断の時を描く。
第2部では、戦いの中で苦悩し、決断し、行動した女性たちのその時を描く。
 動乱の3世紀に、中国・魏に使者を送った卑弥呼。戦国時代、前田利家の妻として百万石の前田家を支え、関ヶ原合戦の前に家康の人質となる決断を下したまつ。そして幕末、江戸で大きな内乱の危機が迫る中、必死で和平のために奔走した皇女・和宮など、戦いの中の女性たちの苦悩と決断の時を描く。
 
番組の内容について
第1部 勝利の時・男たちは決断した

番組のねらい
 人間の歴史においてくりかえされてきた数多くの“戦い”。そのギリギリの極限状況の中で繰り広げられた人間ドラマは、しばしば歴史を大きく動かしてきた。
第1部では、戦いに勝利した男たちの「勝利の時」のつかみ方に注目しながら、その知略と決断の瞬間を描く。

〔織田信長・姉川の合戦〕

姉川合戦の兵数について
浅井・朝倉勢に関しては「信長公記」、織田・徳川勢に関しては静岡大学教授・小和田哲男氏の監修に拠っています。
合戦を再現したコンピューターグラフィックスについて
「信長公記」、「浅井三代記」の記述にもとづいて作成しました。

〔羽柴秀吉・天下分け目の天王山〕
「天下分け目の天王山」という呼称について
この戦い自体は「山崎の合戦」と呼ばれます。今回の番組では「天下の趨勢を決した時代の画期となる決戦」というニュアンスを出すため、上記のような呼称を用いました。山崎の合戦という名も平行して使用しています。
両軍の兵数について
両軍の兵力については諸説ありますが、番組では複数の研究者の方々にご教示いただき、秀吉2万(のち織田信孝らが加わると2万8千、ただしここまでは番組では触れていません)、光秀軍1万3千としました。

〔新選組・池田屋事件〕
新選組の「選」の字について
新「選」組と新「撰」組、どちらが「せん」の字として正しいかという議論があります。答えとしてはどちらも正しい表記です。当時の公用文書でも、同時代の人々も(新選組隊士も含め)どちらも使っていました。 今回、「選」の字としたのは、最近の教科書や市販の本で一般的に用いられているのが「選」である、ということに拠ります。

〔東郷平八郎・日本海海戦〕
「丁字戦法」はなかったという説について
丁字戦法は「連合艦隊戦策」という作戦文書に記載されている戦闘方法で、なかった、ということはありえません。この文書は現在、防衛庁図書館で一般 公開されているものです。 丁字戦法が日本海海戦の唯一絶対の勝因かというとこの点に関しては様々な解釈の余地がありますが、今回は東郷と丁字戦法に注目したためご覧のような内容となっています。 ちなみに、丁字戦法は「T字戦法」と表記されることもありますが、連合艦隊戦策では「丁」のため、それに倣っています。
艦隊、海戦の再現CGについて
各艦艇の設計図などを元にコンピューターグラフィックスを作成し、動きを再現しました。 動きは連合艦隊の「戦闘詳報」や当時の日露両方の乗組員の証言などから推定したものです。ただし、実際の各艦の間隔や、ターンのスピードはかなり誇張しています。 実際の通りにすると間隔が長すぎて画面に収まらなかったり、ターンに2分以上かかってしまうためです。 船の動きは神戸商船大学の定兼教授、砲撃(砲身が交互に動いて撃つなど)などについては三笠保存会と元防衛大学教授(海戦史)の平間氏のアドバイスに拠っています。

<登場人物の言葉、エピソードなど>

織田信長・姉川の合戦
-信長の姉川における一連の作戦
「信長公記」「浅井三代記」の記述を元に推測したもの
-信長の号令
「横鑓に掛かれ」「総見記」より
羽柴秀吉・天下分け目の天王山
-天王山の争奪戦
その有無も含めさまざまな論議がありますが、信頼度の高い「中川家記」などの史料に記述があること、天王山争奪を記した史料の方が圧倒的多数であることから番組で取り上げています。
- 織田信孝・丹羽長秀を待っていたこと~秀吉に合流した時、信孝は涙を流したこと
「浅野家文書」より抜粋引用。ちなみに図示した家系図では三男信孝の上に次男の信雄(のぶかつ・のぶお)、下に四男の秀勝がいますが、本能寺の変時に信雄は近江や領地の伊勢・伊賀から離れることができず、秀勝はすでに秀吉の養子という身でした。秀吉としては、信孝を待つのが一番妥当だったと考えられます。
新選組・池田屋事件
-空撮で紹介した池田屋跡
現在パチンコ屋の店先に石碑が建っているのみです。場所としては京都市中京区河原町三条東入る北。
- 近藤勇の言葉「男児無し」近藤勇の手紙より
小島資料館(東京都町田市小野路町950)所蔵
- 近藤が池田屋に踏み込んだ時発した言葉
「御用改め、手向かいいたすにおいては、容赦なく切り捨てる」
番組内でも紹介した「浪士文久報国記事」より
東郷平八郎・日本海海戦
- 明治37(1904)年8月10日の丁字戦法の失敗
「黄海海戦」時のことを指しています。

第2部 戦乱・その時 妻は、母は

番組のねらい
人間の歴史においてくりかえされてきた数多くの“戦い”。そのギリギリの極限状況の中で繰り広げられた人間ドラマは、しばしば歴史を大きく動かしてきた。 第2部では、戦いの裏に秘められた女性たちの苦悩と決断が歴史の行方を決めた瞬間を描く。

〔邪馬台国の女王・卑弥呼池田屋事件〕
邪馬台国の所在について
邪馬台国に関しては、古くから主に「九州説」「畿内説」を中心にその所在をめぐって激しい論争が展開されてきました。しかし、今回の番組では所在地については一切言及していません。 この番組はどちらか一方の説に与するものでなく、また邪馬台国の所在地を明らかにする意図は全くない番組内容です。
番組内で出てくる「吉野ヶ里遺跡」について
佐賀県教育委員会の見解では吉野ヶ里は弥生時代前期~後期にいたる長期間栄えた集落であり、吉野ヶ里末期の一時期が邪馬台国の時代つまり2世紀後半~3世紀と重なりうるとしています。異論もありますが、おおむねこの説が現在一般 的です。 邪馬台国のイメージ的に映像で出てくる箇所がありますが、上記見解に拠って同時代(に近い)集落イメージとしての使用であり、吉野ヶ里イコール邪馬台国というわけでは決してありません。
「邪馬台国」「狗奴国」「壱与」の呼称について
「やまたいこく」か「やまいちこく」か、「くぬこく」か「くなこく」か、「いよ」か「とよ」か、諸説ありますが、現行教科書や「筑摩文庫版 正史三国志・魏志倭人伝」の読み方に従っています。もちろんこれが唯一絶対の正解というわけではありません。
 ちなみに、エンディングに出てくる「壱与」については、原文の「宗女壱与」を「卑弥呼の親族の娘壱与」としましたがこれは吉川弘文館「国史大事典」に拠っています。
卑弥呼が魏に使者を送った年について
「魏志」には景初2年すなわち238年とありますが、現行教科書はじめ多くの文献が「景初3年(239年)の誤り」としており、番組もそれに拠っています。238年は遼東半島で魏と公孫氏が抗争中であり、魏に使者を送るのは不可能というのがその根拠とされています。

〔悲劇のプリンセス・和宮〕
和宮の呼称について
「和宮・かずのみや」「親子内親王・ちかこないしんのう」「静寛院宮・せいかんいんのみや」など、その時に応じた言い方がありますが、「おん呼び名(幼児の愛称)」である「和宮」が一般 的で広く馴染まれたものなのでこの名称で統一しました。和宮に関する基本書ともいうべき吉川弘文館人物叢書『和宮』も“和宮”で通 しています。また、和宮は歴史上の人物であるため、敬称は略しました。
江戸無血開城は和宮だけの功績か
江戸無血開城は、幕府・朝廷・官軍それぞれの様々な叡智の結集によって実現されたものです。和宮の周旋だけで成ったものでないことはいうまでもありません。今回は和宮に注目した内容のため、和宮の行動を特にクローズアップしたもので、それを最大の要因とするわけではありません。
慶応4年の官軍の進攻ルートについて
番組で図示したのは正規の官軍たる東征鎮撫軍の中山道と東海道の動きのみを表しています。 北陸道を進んだ部隊もありますが、行軍ルートは諸説あり詳細が不明のため割愛しました。他に分派した部隊、山陰・山陽道に向かった部隊などありますが、映像上の煩雑さを避けることと、江戸征討に関する動きにしぼるため、東征軍の主要な中山道・東海道のみとしたものです。ちなみに、官軍の京都進発を1月としたのは、征討大将軍として仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀が授与され官軍が成立、出立した時点からとしたためで、最高司令官である有栖川宮熾仁親王の東征大総督府の出発は2月15日です。
家茂没後の和宮の容姿について
夫家茂死後の和宮の姿、ことに髪型は諸説あります。文献的には薙髪(ちはつ)・髪をおろす、とだけあり、武家の習慣として髪を切りそろえただけとも、御所の風習から出家姿となった、最後まで長いままの「おすべらかし」だった、ともいわれます。 番組ではこれまで映画などで採用されてきた“出家姿”を採りました。

<登場人物の言葉、エピソードなど>
前田利家の妻・まつ
- 秀吉の遺言
「利家殿は、秀頼が成人するまで守り役となって面倒を見て欲しい」
「浅野家文書」より
- 秀吉殿が亡くなった今、これから世の中は一体どのようになるのでしょう」
「東路記(あずまじのき)」
金沢市玉川図書館所蔵より
原文:秀吉様薨じたまいて…いかになりゆかん
- 利家臨終の際のまつとの経帷子のやりとり
加賀藩史料所収「古心堂叢書利家公夜話首書」
原文 宮内庁書陵部保管より
- 家康の脅迫の書状
加賀藩史料所収「三壺記」より
- まつが江戸に発つ時、利長にのこした言葉
「自分はもう年もとっているし…私を捨てなさい」
加賀藩史料所収「桑華字苑」内の記述より

悲劇のプリンセス・和宮
-和宮の和歌
「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」
-和宮が朝廷、官軍に出した手紙
1月20日朝廷宛て
「徳川家が後世まで朝敵の汚名を残すことは…一命を惜しまぬつもりです」
2月25日朝廷から和宮宛て
「寛大な措置は難しい。必ずや徳川家への討伐が行われるだろう」
2月26日官軍宛て
「朝廷に対し孝を立てて…大変当惑しております」
「静寛院宮御日記」宮内庁書陵部所蔵 分より
3月13日官軍宛て
「どうか私の心中をお察し下さい。江戸へ進軍なさるのは、何とぞいましばらくご猶予下さい」
「静寛院宮御日記」岩倉公旧跡保存会所蔵 分より

まつの言葉
「君のため、世のため、また子のためになるならば…またつらく、涙のこぼれることですから」前掲 「東路記」より
原文:君のため世のため又は子を思う心のやみには 何をか思ひわきまえ侍らんとてやすやすと思ひたちぬしたしきゆかりのなかを はなれゆくもとどまるも おなしつらさのなみたにて

まつの墓
金沢市野田山墓地の上の方にある
官吏は成巽閣、本来は柵の中のため近付くことはできません。
和宮の言葉
「上京をおすすめくださるのは、まことにありがたいことです…私は帰るわけにはまいりません」和宮の手紙より 増上寺(東京)所蔵

和宮の墓
増上寺の徳川家霊廟内にあります。一般には未公開。
 

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