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第101回
本能寺の変~信長暗殺!闇に消えた真犯人~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:1582年(天正10)6月2日 |
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出来事:織田信長、本能寺で明智光秀に討たれる |
日本史最大の謎とも言われる、本能寺の変。改革の旗手、織田信長は、なぜ家臣の明智光秀に暗殺されなければならなかったのか。これまで事件は、信長の仕打ちに怨恨を抱いた光秀が突発的に起こしたものと言われてきた。が、近年、室町幕府の将軍や公家たちも関与した集団的なクーデターであった、との説が注目を集めている。
当時、信長は将軍や朝廷、宗教勢力が持っていた権威に対抗し、自分が日本の国王であると広言。自らを神として祭る寺院を作ったり、自分の誕生日を聖なる日と定めたり、さらに天皇にしか許されないとされていた暦の改定に着手するなど、それまで日本のタブーとされていた領域にまで改革の手を伸ばそうとしていた。本能寺の変は、こうした信長の行動に自らの存在を否定されると感じた旧勢力が糾合して行ったクーデターであった、と推理されるのである。暗殺者?光秀の背中を押したのは誰だったのか。光秀はなぜ無謀な信長暗殺を実行したのか。
番組では、最新の研究成果をもとに、日本の歴史を大きく変えた暗殺事件の背後に広がる闇に迫る。 |
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番組の内容について
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番組のねらい
日本史最大の謎と言われる本能寺の変。これまで事件は、信長の仕打ちに怨恨を抱いた光秀が突発的に起こしたものと言われてきたが、近年、室町幕府の将軍や公家たちも関与した、集団的なクーデターであったとの説が注目を集めている。最新の研究成果
をもとに、日本の歴史を大きく変えた暗殺事件の背後に広がる闇に迫る。
<想定問答>
本能寺のあった場所について
京都市中京区元本能寺南町。平成14年6月まで本能小学校が建っていたが、現在は取り壊し、発掘調査を経て、高齢者の福祉施設が建つ予定。
足利義昭を揶揄した「戴恩記」について
文人?貞徳の著作。貞徳は、貞門俳諧の祖として知られている。70半ば過ぎから、生涯を顧みて、師の恩を語ったもので、自叙伝的要素の強い史料である。
番組中で紹介した「公貝(くがい)」は、九の貝「九貝(くがい)」と「公貝(くがい)」をかけた揶揄。「公貝(くがい)」とは、公の仕事を指す。他に「公界しらず」は世間しらず、世間に通
用しない者を意味する。
五ヵ条の条書(事書)について
元亀元年(1570)正月23日付けで、信長が日乗上人と明智光秀宛に出し、将軍?義昭に承認させた条書。条書とは、箇条書き形態の文書のこと。義昭の行動を信長の監督下に置こうとしたものと理解されている。
「明智光秀、丹波を平定」について
出典は、「信長公記(しんちょうこうき)」。天正7年(1579)、光秀は丹波を平定し、信長より高い賞賛を受け、天正8年(1580)には、丹波国を与えられる。
実質的な丹波支配は、天正7年(1579)から行われていた。
信長の武家集住策について
安土城の築城が進むにつれ、信長は家臣を城下に住まわせるようになる。その理由については、番組でも紹介してあるように、兵農分離を進めるためであった。
天正6年(1578)には、信長は、尾張に妻子を残して単身赴任していた家臣120人を発見し、私宅を焼き払わせて強制移住をさせたこともある。
「越前国掟(えちぜんくにおきて)」について
越前を平定した後の天正3年(1575)9月、信長は柴田勝家などの武将を配置し、支配方針を盛った九か条を定めた。この掟をもって、はじめて分国者(大名)から脱してそれらの上に立つ統一政権としての自己を明確に位
置づけたことを意味すると捉えられている。
信長の四国政策について
天正3年(1575)から、信長は土佐の長宗我部氏と好を結んでいたが、天正9年(1581)6月に方針を変更。長宗我部氏の当主?元親の弟?香宗我部親泰に朱印状を出し、阿波支配を三好氏に任せ、その援助をするよう通
告。さらに、天正10年(1582)5月には四国国分け案を表し、長宗我部氏を滅亡の危機にさらすことになった。
香宗我部親泰への朱印状は、東京大学史料編纂所蔵。
安土行幸計画について
「信長公記(しんちょうこうき)」天正10年(1582)正月のくだりに「御幸の間」と記述されていること。当時の武家伝奏という役目を担っていた勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)の日記、正月7日の記述に「行幸の用意馬鞍」と記されていることから、安土行幸計画が進められていたと言われている。
暦変更要求について
暦の制定は天皇の定める権限であった。朝廷の暦は、宣明暦(せんみょうれき)を基礎とした京暦を用いたのに対し、信長が主張したのは、尾張などで使われていた
三島暦(みしまれき)だった。
「信長打ち談合の衆なり」の記述について
当時、信長と朝廷との間の連絡役、武家伝奏(ぶけてんそう)という役割を担っていた勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)が記した「天正十年夏記(てんしょうじゅうねんなつき)」の6月17日に記されている。明智光秀の家臣?斎藤利三が護送されているのを見て記されたもの。
四国攻撃軍がの出陣日が6月2日という根拠について
「細川忠興軍功記」には、「三七殿(織田信孝?信長三男)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ六月二日に渡海あるべしとて???」という記述がある。
斎藤利三が光秀に謀反を急がせたことについて
「長宗我部元親記」には、四国攻撃軍の出陣を前にして「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣に存ずるによって也、明智殿謀反の事いよいよ差し急がる」と記されている。
明智光秀が上杉家に使者を送ったことについて
東京大学文学部に所蔵されている「覚上公御書集(かくじょうこうごしょしゅう)」に光秀があらかじめ謀反の計画を知らせていた可能性の高い記述がある。
「覚上公」とは上杉景勝のこと。
6月3日に、上杉家の家臣同士の手紙がその部分。当時、信長軍と越中(富山県)最後の砦?魚津城で上杉家は対峙していた。6月1日に、その魚津城の大将の家臣から「明智光秀が使者をよこし、上杉家が将軍?義昭へ最大限の援助をするようにと伝えてきた」と聞いたと書状に記されている。このことから、明智光秀は、6月1日以前に使者を魚津に到着させていたこと。そして、信長の敵である、将軍?義昭と上杉家と連絡をとっていたことが推測される。
明智光秀が丹波?近江を召し上げられたことについて
「明智軍記」の記述による。
本能寺の変の前日、信長暦問題を再燃させることについて
武家伝奏?勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)の「天正十年夏記」6月1日の日記に記されている。
足利義昭御内書について
6月13日付け乃美宗勝宛御内書。乃美宗勝は、毛利家親族?小早川家の家臣であった。義昭は、「信長を打ち果
たした上は」と、あたかも自ら信長を討ったかのような表現で、自らの上洛援助を要請した。尚、この史料は、天正10年以外のものであるとの説もあるが、スタジオゲストの藤田達生さんの説に拠った。
明智光秀の歌について
「心知らぬ人は何とも言わば謂え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
細川家の家譜(かふ)「永源師檀紀年録(えいげんしだんきねんろく)」に記述されている。
スタジオゲスト
藤田達生さんの著作について
「本能寺の変の群像~中世と近世の相克~」
雄山閣
本体価格2500円
番組内で使われた資料などの所蔵先一覧
参考文献
「本能寺の変の群像~中世と近世の相克~」藤田達生著
雄山閣
「信長権力と朝廷第ニ版」立花京子著
岩田書院
「体系日本の歴史8天下一統」朝尾直弘著
小学館
「信長の合戦」戸部新十郎著
PHP文庫
「現代語訳 信長公記上下」中川太古訳
新人物往来社
「改訂 信長公記」桑田忠親校注
新人物往来社
「明智軍記」二木謙一校注
新人物往来社
「日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府」池上裕子著 講談社
「明智光秀 鬼退治の深層を読む」永井寛著
三一書房
「織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで」谷口克広著 中公新書
「流浪の戦国貴族近衛前久」谷口研語著 中公新書
「明智光秀 つくられた謀反人」小和田哲男著
PHP新書
「信長の夢 安土城発掘」NHKスペシャル
「安土城」プロジェクト
NHK出版
「是非に及ばず本能寺の変を考える」滋賀県立安土城考古博物館
平成13年度秋季特別展図録
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