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第103回
さらば淀殿 お初の決断
~運命に立ち向かった戦国三姉妹~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:慶長20年5月7日夕刻 |
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豊臣と徳川が雌雄を決した大坂・冬と夏の陣。この戦いの中で、唯一両家の間を取り持つことの出来る立場にいた女性が、織田信長の妹・お市の方の娘・お初である。
幼い頃の二度の落城、そして政略結婚。戦乱の世に翻弄されながら生きてきたお初は、姉の淀殿が豊臣家に、かたや徳川家には妹・お江(おごう)がいた。両家に縁のあるお初は、何とか豊臣と徳川の協調路線を模索しようと、両家の間を奔走した。最後の最後まで姉とともに大坂城内にとどまっていたお初であったが、最終的に姉と別れ、大坂城を後にする。
豊臣と徳川との和平の架け橋であったお初が、豊臣と徳川の共存が不可能であることを悟り、自ら両家をつなぐ糸を断ち切った瞬間を描く
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番組の内容について
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「牢人」(ろうにん)は浪人の誤りではないか?
「牢人」とは、主家を去って俸禄を失った武士という意味。江戸時代中期以後はほとんど「浪人」という字を用いるようになったが、「浪人」の字義は、本来は本籍の地を離れて流浪する浮浪の者の意で別儀である。
よって、今回は舞台が江戸時代中期以前であるため、「牢人」の字を用いました。
ちなみに牢人とは、領地や地位・俸禄などを失って落魄(らくはく)することを牢籠(ろうろう)といい、牢籠としている人すなわち牢籠人が縮まって牢人の語となった。(『国史大事典』より)
浅井の読み方について
番組では「あざい」としました。浅井長政の居城のあった現在の滋賀県東浅井町の読み方も「あざい」であるのに従い、また、学術的にも最近は「あざい」と称していることから「あざい」としました。
秀頼の子供=淀殿の孫について
淀殿の息子・秀頼には側室との間に男の子と女の子がいました。男の子は処刑されましたが、女の子は鎌倉市の東慶寺へ預けられ、後に天秀尼(てんしゅうに)と称しました。
※
千姫(淀殿の妹・お江の娘)との間の子供ではありません。
大坂の表記は「大阪」ではないか?
明治以後「阪」の文字を使用することになりましたが、江戸時代までは「坂」と表記しました。よって大阪の表記は「坂」とし、大阪城も「大坂城」としました。
三女・お江は徳川秀忠とは「再婚」なのか?
静岡大学教授・小和田哲男さんの著書『戦国三姉妹物語』によると、お江は生涯に三度結婚しています。初めは12歳の時、羽柴秀吉に引き取られた翌年の天正12年(1584)に尾張大野城主・佐治一成に嫁ぎました。しかし、その年のうちに離縁し、大坂城に戻りました。その後、文禄元年(1592)、お江20歳の時に、秀吉の甥である羽柴秀勝(小吉秀勝)に嫁ぎました。しかし文禄の役で戦死。三度目の結婚相手が徳川家康の息子・秀忠となりました。
浅井三姉妹について
◎北近江の戦国武将、浅井長政とお市の方の間に生まれた三姉妹。
長女・・・茶々(ちゃちゃ)後の淀殿(よどどの)
(淀君も言われますが、この呼称は後世のものであるため、番組では淀殿で統一させていただきました。)
豊臣秀吉の側室となり、秀頼を出産します。従来永禄(1567)生まれと言われてきましたが、これは江戸時代に書かれた「翁草」にある大坂の陣で没したときの年齢が49歳だったという記述から逆算したもの。しかし、「翁草」の信ぴょう性や、また淀殿の母であるお市の方の結婚した年が永禄11年という説から淀殿は永禄12年に生まれたのではないかという説もあり、ここでは、永禄12年(1569)生まれの説(静岡大学・小和田哲男教授ほか)を取りました。
次女・・・お初、今回の主人公。
永禄13年(1570)生まれ。通説は永禄11年生まれ。
京極高次と結婚。出家して常高院(じょうこういん)称す。
三女・・・お江(おごう)。
あるいは小督(おごう)、お江与(おえよ)という説も。
ここでは「お江」で統一しました。後の崇源院(すうげんいん)。徳川家康の息子、秀忠(後の二代将軍)と結婚。三代将軍家光や千姫などの母でもあります。
常高寺・お初のお墓について
所在地は福井県小浜市(おばまし)。臨済宗妙心寺派。お初の願いによって建立された。境内にはお初のお墓も現存しています。観光可能。
JR小浜線小浜駅から車で5分程度です。
電話 0770-53-2327
小谷城について
お初が生まれた城。近江の武将・浅井氏の居城。城址(本丸跡)の所在地は滋賀県東浅井郡湖北町。
湖北町では小谷城址の観光ガイドサービスを行っています。地元の方が案内してくれて、時間やコースは柔軟に対応してくれます。事前に予約が必要です。
料金など詳しいことは
湖北町観光協会 0749-78-1001へ。
北ノ庄城について
柴田勝家の居城。お初が二度目の落城を経験し、母・お市の方を亡くした城。城址の所在地は福井県福井市。
大津城について
お初が夫・京極高次と関ヶ原の戦いの前哨戦で死守しようと奮闘した城。大津城開城と関ヶ原の戦いは同じ慶長5年9月15日のことでした。
城址の所在地は滋賀県大津市。国道161号線浜大津交差点に石碑があります。
小浜城について
お初が夫・高次と築城した城。城址の所在地は福井県小浜市。
女性同士の和平交渉について
大坂冬の陣の和平交渉。豊臣方はお初(常高院)、徳川方は家康の側室・阿茶局(あちゃのつぼね)が交渉の席につきました。
登場人物の言葉、エピソードなど
「今、花のような姫たちの命を奪うのは不びんである。娘たちを連れて逃げて欲しい」
小谷城落城の際の浅井長政の言葉を意訳。
『浅井三代記』より。
「まず妹たちから嫁がせて下さい。私のことはその上で。」
秀吉から一緒になろう、側室になれという誘いの言葉に対してお初の姉・茶々(後の淀殿)が答えたという言葉の意訳。
『渓心院文』(けいしんいんのふみ)より。
「私が東北に行っている間、上方の状況が不安なので、もし何か事が起きたら、その時は宜しく頼みたい。」
関ヶ原合戦前に、徳川家康が東北の上杉氏討伐に向かう途中、お初のいる大津城に立ち寄って京極高次らに言った言葉の意訳。
『寛政重修諸家譜・京極家』より。
「家康の手を離れ、秀頼様に御忠義を尽くされれば、姉君淀殿がどれだけお喜びになられましょう。」
大津城で籠城するお初に姉・淀殿からの使いが伝えた言葉の意訳。
『大津籠城合戦記』より。
「夫は今忙しく、しばらく夫と会っていないので、私はその心中を察しかねます。」
大津城に籠城するお初が、姉・淀殿からの使いの説得に対して答えた言葉の意訳。
『大津籠城合戦記』より。
「鉄砲の弾が袖を貫通しても、もののかずともせず奮闘した。」
お初が大津城籠城の際に奮闘していた様子を記した
『凌霄開山和尚伝』(りょうしょうかいざんおしょうでん)より意訳。
「私は今、そちらへ急いで向かっている。何とか持ちこたえて欲しい。」
家康から京極高次への慶長5年9月7日付け手紙などからの意訳。
「国家安康」
方広寺の鐘に刻まれた銘。
「和睦偽謀」(わぼくぎぼう)、『凌霄開山和尚伝』(りょうしょうかいざんおしょうでん)より。
「弓矢の事は女の指図を受けるものではない。二度と常高院(お初)は我が前に顔を出すな」
家康からの最後通ちょうを持って大坂城に来たお初に対しての、お初の甥・秀頼の言葉の意訳。
『秀頼事記』より。
元和偃武(げんなえんぶ)
元和(げんな)・・・平和の到来
偃武(えんぶ)・・・武器を蔵の奥にしまうこと
「半ば恨み半ばよろこぶ」・・・お初が大坂の陣の後、語った言葉。
「あの戦いが終わって確かに真の平和が訪れたのかもしれない。しかし、それは私にとっては大きな苦しみを伴うものでした。」
お初の複雑な胸の内を表した言葉。
『凌霄開山和尚伝』より。
お初の遺書
「かきおきのこと」
「わかさ常高寺の事くれぐれたのみ申候 しせん国かへ御入候ともてらのつづき申候やうに御心そへ揃うてたまハり候へく候」
・・・もし、国替えがあっても常高寺が持続するように配慮して欲しいというお初の願い。この他は、お初の侍女や寺の奉公人など、周りの人の将来を細々と心配し、「どうぞ目をかけてあげてください」と頼む内容となっている。
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