|
第105回
昭和を揺るがした銃弾
~ライオン宰相?浜口雄幸狙撃の時~ |
|
松平定知 アナウンサー |
|
番組概要
|
|
その時:昭和5年11月14日午前8時57分 |
|
出来事:内閣総理大臣?浜口雄幸、狙撃され
る |
|
昭和5年11月14日、第27代総理大臣?浜口雄幸が東京駅構内で狙撃された。公明な政治、軍縮と不況打開に精力をつぎ込んだ責任感の強い浜口が、なぜ狙われなくてはならなかったのか。
浜口は、日本が長い不況に苦しむ時代に首相に就任、緊縮財政?軍縮などを柱に不況打開を目指した。「身命を失うとも、奪うべからざる固き決心なり」と、浜口は断固たる決意で改革に望む。
昭和5年のロンドン軍縮条約では、補助艦の保有トン数をめぐってアメリカ?イギリスと熾烈な駆け引きを行い、目標値に近い結果
を引き出すことに成功。しかし海軍の一部や野党など、国内の壁が浜口の前に立ちふさがる。
さらに浜口が押し進めた緊縮財政では、なかなか不況を脱することはできなかった。
やがて浜口の近辺に不審な事件が起こるようになる。気をつけるよう促す妻。万一の時の覚悟をしておくよう妻に諭す浜口。そして運命の瞬間がくる。
浜口首相の狙撃は、大正から昭和初期の政党政治の挫折、軍部の台頭へとつながる昭和の転換点となる。一発の銃弾が引き起こした悲劇の瞬間を描く。 |
|
番組の内容について
|
番組のねらい
昭和初期「ライオン宰相」と呼ばれ、その実直な人柄が国民の人気を集めた内閣総理大臣、浜口雄幸。浜口は、1930年11月14日8時57分、右翼の青年によって狙撃され、政治生命を絶たれた。それは不況打開のための軍縮を成し遂げ、国際協調外交を進めた浜口らの政党政治が、軍部に屈してゆくきっかけとなった象徴的な事件だった。背景には党利党略に走り、政権奪取にのみ躍起になった政治家たちの政治倫理の低下と、世界恐慌などの大不況による世情不安があった。
一発の銃弾が浜口を貫いた瞬間、日本は昭和の動乱の時代を迎える。その悲劇の瞬間にいたるまでのドラマを描く。
画面に映っている住居。浜口雄幸の生家について
現在、浜口の生家が復元され残されている。
所在地
高知市五台山4377
問い合わせ先
高知市社会教育課
TEL
088-822-6394
料金 無料
休日
水曜日、年末年始(12月27日~1月3日)
浜口が議員となって5年後の不況。
第一次世界大戦後、日本を襲った戦後の反動恐慌と呼ばれるもの。
1920年からはじまる。輸出が輸入を上回っていた日本の経済が、この年から輸入が輸出を上回るようになった。
田中内閣辞職の原因について
直接的な原因としては、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)の不手際が天皇の怒りをかうこととなり、辞職した。
緊縮政策として予算の削減を行った
その金額について
総合卸売物価指数を参考に、計算しました。これによると、現在は昭和4年のおよそ600倍の物価。当時の金額でおよそ一億5千万の予算を削減したことから、900億円の削減としました。
※参考は、日本銀行のホームページ「教えて日銀」に詳しい
金解禁について
城山三郎「男子の本懐」にわかりやすく説明がされています。
軍縮条約について
波多野勝「浜口雄幸」にわかりやすく説明がされています。
軍事費が予算の3割。
昭和5年度の予算16億円。
陸海軍の軍事費はおよそ5億円、であることから。
条約成立した場合の軍事費削減額について
伊藤隆「昭和初期政治史研究」(東京大学出版会)P117を参考。
これによると、条約実施による海軍費の減額は当時の金額でおよそ4億円と考えられている。4億円×600で2400億円。
ただ、この金額は、対米6割9分7厘5毛の案から割り出した数字です。
対米7割案を主張する海軍の言い分
ワシントン会議において、日本は7割案を主張していたが受け入れられず、主力艦対米比率6割が定められた。
この時、加藤寛治も随行し7割を主張していた。
ロンドンでは同じ轍はふまないとする加藤らは強硬に7割案を主張していた。ただし、加藤軍令部長とは意見を異にする条約の賛成派も、海軍の中にいた。
詳しくは「昭和初期政治史研究」「浜口雄幸」を参考。
対米7割案はどこから?
日露戦争後、日本は想定敵国の一つにアメリカをあげていた。そのさい、侵攻してくるアメリカ艦隊を撃破するにはアメリカ艦隊の7割は必要と強調され、しだいに不動の常識となった。
野村実 監修 「図説 日本海軍」 河出書房新社 P98より
浜口内閣の政策について
緊縮政策は、アメリカの株価大暴落をきっかけとした世界恐慌をまともに影響をうけてしまったため、結果
としては成功しなかった。というのが一般的なとらえ方。ゲストの城山さんは
「昭和恐慌がひきおこされたのは浜口の政策が原因のすべてではない。世界恐慌勃発という時期の悪さが最大の原因である」と語っている。
狙撃にいたる詳細について
「昭和政治裁判記録」での浜口首相狙撃事件、犯人の供述を参考。
※犯人は政友会の演説やビラをみて、浜口首相殺害を決意した。
首相の警護費用削減について
「浜口雄幸」の著者 波多野勝氏によると、実際、浜口の警備は、身の回りの警護削減?ホームでの一般
客の出入り自由など、日頃から命の覚悟をしていたのではと思えるほど、薄かったという。
<登場人物の言葉、エピソードなど
>
浜口のエピソード全般について
城山三郎「男子の本懐」や波多野勝「浜口雄幸」らに詳しく記されている。
浜口が政治への関心をいだくようになったときの言葉
「余は政治思想の最も旺盛を極めたる明治十年代の、土佐の青年の雰囲気の裡(うち)に(不知不識の間に)政治家たる素質を養成せられ、政治家たる種子を植え付けられた様に思う」
「随感録」より
浜口が後藤から誘われたエピソードについて
「浜口雄幸 日記?随感録」 池井優?波多野勝?黒沢文貴 編
(みすず書房)の中の「随感録」に記載
浜口が政治家となった時の言葉
「明日から実行可能な議論を発表しなければ、真の政治は発達しない。私が代議士となった以上は、空理空論を排して、責任ある政見を、発表したいと思う」
「中央公論」大正4年5月より
???波多野勝「浜口雄幸」
浜口が総理大臣となった時の新聞記事
「浜口総裁はこの重任に(略)真実悲壮なる覚悟であろうと思ふ」
(昭和4年7月3日付 東京朝日新聞)
組閣の夜に家族へ語った言葉
「自分は大命を受けた以上、決死の覚悟で事にあたるつもりだ。自分に万一のことがあっても決してうろたえることのないよう、くれぐれもたのんだ」
「父 浜口雄幸」
「男子
の本懐」より
浜口の演説
「私は、我が国今日の経済的難局を座視することはできません。ここに諸君と共に、大なる決心と大なる覚悟とを以て目下の難局を打開し、国運の発展に貢献せんが為に努力奮闘したいと思います。幸いに、諸君の充分なるご協力あらんことを、切に希望いたす次第であります」
「浜口雄幸演説集」より
軍縮条約への浜口の考え
「国際平和の精神に徹底し、各国民の負担の軽減をはからんが為、単に軍備を制限するに止まらず、進んで軍備縮小の実を挙ぐることを要務とすべきである」
1929年12月、民政党機関誌論説
「浜口雄幸演説集」より
アメリカとの個別交渉について
五百旗頭真「スチムソンと近代日本」を参考にしました。
※波多野勝「浜口雄幸」にも記載されている
海軍軍令部長 加藤寛治の言葉について
波多野勝「浜口雄幸」と、当時の新聞記事を参考にしました。
「7割貫徹、さもなくば引き上げるべし」
昭和5年3月17日、加藤がロンドンの財部海軍大臣へ送った電報の内容
→その2日後加藤は浜口を訪問し、国防の責任等について厳しく主張。
電報をうけた若槻から浜口への言葉
「会議決裂の場合、日本の蒙るべき不利不幸は、実に言うに忍びざるものあり」
3月25日、若槻から浜口への電報
▼「自分が政権を失うとも、民政党を失うとも、また、自分の身命を失うとも、奪うべからざる堅き決心なり」
3月25日、浜口が山梨次官に語った言葉
波多野「浜口雄幸」より
政友会の浜口批判
「政府が軍縮問題に関して、軍令部という、統帥権に関する直接の機関の意向を無視したことは、まことに政治上の大冒険といわねばならない」
(昭和5年4月26日東京朝日の記事より、鳩山一郎の言葉)
枢密院、審議での浜口の言葉
(昭和5年9月2日付 東京日日の記事)に記載されている委員会の様子を参考。
「軍令部長の同意は得たのか?」
浜口は答えます。
「軍令部長が承認を与えない以上、陸海軍大臣を包含する政府において、最後の決定をなしたのである」
「統帥権干犯とはならないのか?」
「しかり」
枢密院での審議に関する世論
「国民は、不況打開のための軍縮を歓迎している。その民意を阻む枢密院は近代政治に逆行するもの」
(昭和5年9月7日 大阪毎日)を参考
※世論の支持については波多野勝「浜口雄幸」にも記載されている。
枢密院の審議に対する言葉
「政府としては、既定方針どおり、左右を顧みず、一貫したる信念を持ってこれに対し、一歩も譲るところはないのだから、あくまでもこの方針を確守し、憲政発達のために貢献したい」
(昭和5年9月17日 東京朝日 夕)
浜口の軍縮を記念したラジオ演説
「現在世界は、列強互に相敵視して、力に訴えてまでも、自国の利益を開拓せんとしたる所謂「冒険時代」を既に経過いたしまして、今や、各国互いに相信頼して共存共栄を計る所の「安定時代」に到達しておるのであります」
「浜口雄幸集」より
予算編成に対する浜口の言葉
「陸軍聴かず。海軍肯わず。各省また従わず。予算編成の難きこと未曾有のことなり。」
「随感録(予算夢問答)」より
狙撃当日の妻と浜口
「父 浜口雄幸」を参考にしました。
「男子の本懐」について
この言葉を聞いたのは、外相の幣原喜重郎であるといわれている。波多野勝「浜口雄幸」には、軍縮条約問題のさなかにも、浜口は「仮令玉
砕しても男子の本懐ならすや」と語っている事実
(海軍大臣財部彪の「財部日記」)が記されている。
闘病生活を励ます子供
「随感録(11月14日)」で、浜口が子供たちの応援に涙した記述を参考。
国会での言葉
「私不慮の遭難のため、数ヶ月の間、国務を離るるのやむなきに至りました。しかし、健康も次第に回復をいたし、総理大臣の職務にあたることとなったのであります」
3月10日の新聞、青木得三「浜口雄幸」を参考
登院した日数
3月10日から27日の議会のあいだ、出ることが出来なかった日をのぞき10日間出席した。
青木得三「浜口雄幸」を参考
浜口の言葉
「随感録(余と趣味道楽)」より
「政治は浜口唯一の趣味道楽であると人はいう。余、謂へらく、政治が趣味道楽であってたまるものか。いやしくも政治は趣味道楽であるという思想が、一片たりとも政治家や国民の頭脳に存在する以上は、
それが戯談でない限り、一国の政治の腐敗するのはむしろ当然である。凡そ政治ほど真剣なものはない。命がけでやるべきものである。」
番組内で使われた資料などの所蔵先一覧
参考文献
池井優?波多野勝?黒沢文貴 編「浜口雄幸 日記?随感録」
(みすず書房)
川田稔編 「浜口雄幸集 論述?講演篇」 (未来社)
波多野 勝「浜口雄幸」 (中公新書)
城山三郎「男子の本懐」 (新潮社)
北田怜子「父 浜口雄幸」 (日比谷書房)
伊藤隆「昭和初期政治史研究」(東京大学出版会)
青木得三「浜口雄幸(三大宰相列伝)」(時事通信社)
野村実監修 太平洋戦争研究会「図説 日本海軍」(河出書房新社)
北岡伸一「日本の近代5」(中央公論新社)
粟屋憲太郎「昭和の歴史6 昭和の政党」(小学館)
中村政則「昭和の歴史2 昭和の恐慌」(小学館)
|