その時歴史が動いたDVD第114回 激突 武田信玄と上杉謙信 ~川中島の戦い、両雄決戦の時~日本NHK纪录片

 

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その時歴史が動いた  DVD

第114回
激突  武田信玄と上杉謙信
~川中島の戦い、両雄決戦の時~

松平定知 アナウンサー
番組概要
その時:永禄4年9月10日
出来事:第4次川中島合戦で、武田信玄と上杉謙信が激突
 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が川中島で激突。戦国を代表する両雄の4度目の対決は、知謀と武力の限りを尽くす総力戦となった。群雄が乱立する関東・信越の覇権をめぐり、三度の前哨戦を行った両雄。室町時代の秩序の回復をめざす謙信と、新時代の覇者たらんとする信玄は、互いに勢力を拡大しながら4度目の対決に向かう。
 これまでの戦いは、謙信が先手必勝の勢いで猛進し、それを信玄が知謀でいなすという展開であった。互いを知り抜いた両者は、相手の裏をかく戦術に出る。
川中島の濃い霧が互いの動きを隠す中、奇襲を狙う信玄。それを見越して逆襲をねらう謙信。そして霧がはれたその時、信玄の目の前に信じられない光景が広がっていた。
 虚々実々の心理戦。騎馬武者達の肉弾戦。戦国時代でもまれといわれる激戦は、逆転につぐ逆転の末、意外な決着へと向かう。武田信玄、上杉謙信の第4次川中島合戦の、帰趨が決まった瞬間を描く。
番組の内容について
戦国の猛将、甲斐の武田信玄は、東日本の覇権をかけて宿敵、上杉謙信と川中島で数度の激突を繰り返す。 信玄は巧みな領国経営と外交で領土拡大を図る。一方謙信は、室町幕府の関東管領となり東国支配を狙う。そして両者が国の興廃を賭け、知略の限りを尽くし戦う第4次川中島決戦。番組はこの決戦に至る過程をたどり、戦国から天下統一に向かう日本の行く末に大きな影響を与えることとなった決戦の時を描く。

<内容について>

Q:武田信玄、上杉謙信としているが、この時期、謙信はまだ上杉政虎であり、信玄もある時期までは武田晴信ではないか?
A:武田信玄が信玄と名乗ったのは出家した永禄2年ころ以降であり、それ以前は武田晴信だった。上杉謙信が謙信と名乗るようになったのは川中島合戦より後のことであり、謙信は元々長尾姓でありしかも頻繁に改名を繰り返している。番組では時代によって名前が変わる煩雑さを避けるため、一般 に知られた「武田信玄」「上杉謙信」で通した。
Q:川中島合戦の顛末が詳しく描かれているが、どのような史料に依拠したのか?
A:番組冒頭で紹介したように、基本的には「甲陽軍鑑」に依拠している。甲陽軍艦は江戸時代の初期に書かれた軍学書で、武田流の兵法を紹介するための書物であり、この中に川中島合戦をはじめとする武田家の興亡史が詳しく記述されている。武田家滅亡の半世紀近く後に書かれた書物であることと、内容に一部荒唐無稽な点や他の記録と矛盾する記述が散見されることから、一時期否定的に見られていた時期もあった。しかし、最近は学会を中心に再評価の動きが強く、古文書や手記のような正確さは望めないが、概ね事実と認めてよいとの立場に立つ研究者が増えてきた。
番組のクライマックスとなった第四次川中島合戦については、合戦の詳細に言及した一時史料が皆無であるため、この「甲陽軍艦」をはじめとした軍記物に依拠せざるを得ない。そこで、今回の番組では「甲陽軍鑑」の軍記物の記述の中から、状況的に見て事実と認めてもよい記述を出演者の小和田氏哲男氏、山梨県県史編纂室の平山優氏に相談にのっていただきながら選び出して構成した。

Q:武田信玄が上杉軍の武将に襲われる場面 があったが、信玄を襲撃したのは上杉謙信本人ではないのか?
A:武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは、一般によく知られるエピソードであり、「甲陽軍艦」にも記述がみられる。 しかし、当時の大将をめぐる兵員配置の問題等から小和田氏をはじめ多くの学者が事実とは認めがたいとしている。ただし、「甲陽軍鑑」をはじめとした軍記物に見られるだけでなく、一時史料の中にも謙信が自ら刀をとって戦ったと記している記述もあるし、また番組で紹介したように上杉家の公式記録(上杉家御年譜)には荒川伊豆守という武将が信玄に切りかかったとある。どれが事実かの判別 は難しいが、信玄、謙信の一騎打ちといわないまでも、信玄が戦死寸前の深刻な状況に追い込まれたこと、謙信が実際に刀をとって暴れ回ったことは事実として認めてよいかもしれない。 そこで、番組では小和田氏の指導の許、上杉家の公式記録に言及するにとどめた。一騎打ち伝説に関して詳しく知りたい方は、参考資料「史伝武田信玄 小和田哲男著 学研M文庫5章 謙信との川中島の合戦を分析する」を参照されたい。

Q:武田信玄は川中島合戦のとき髪をそっていたのではないか?
A:信玄は確かに出家していたが合戦の時まで文字通り髪をそって僧形となっていたかどうかはさだかではない。 番組では合戦中は武将姿とした。

Q:9月10日の両軍の動き、時刻(タイムテーブル)は何に依拠したか?
A:基本的には「甲陽軍鑑」を中心に様々な軍記の記述から総合的に妥当と思われる時刻、動きを導き出した。
Q:両軍の兵数、死傷者数は何に依拠するか?
A:兵数(上杉軍1万3千、武田軍2万)は「甲陽軍鑑」に依拠した。 死傷数(率)(2万7千、7割)は井上一次「大日本戦史」に依拠した。
Q:最後に「敵に塩を送る」エピソードの紹介があったが事実か?
A:「川中島合戦における信玄の戦後処理(上杉側の死者を手厚く葬った)に感じた謙信が、後年、駿河の今川から塩の輸入を止められ困惑した武田氏に塩を送って義に報いた」このような伝説が長野県から山梨県にかけて伝わっている。いわゆる「義塩伝説(ぎえんでんせつ)」である。一方今川家の史料に、武田の領土に塩を移入することを止めたとする史料があることから、この伝説もあながち全くの作り話ではないとされてきた。ところがこの今川家の史料に対し解釈に疑問を投げかける小和田哲男氏の研究が近年発表された。 番組ではあくまで一つの伝説として紹介した。

川中島古戦場(信玄、謙信一騎打ちの銅像)の住所
長野市小島田町1103 バス停八幡原近く 長野市立博物館の最寄り
信玄の生まれた山、要害山
山梨県甲府市下積翠寺(しもせきすいじ)町、積翠寺温泉から山頂まで徒歩30分
上杉謙信が立てこもった妻女山
長野市松代町岩野、山頂に神社、展望台があります。
信玄の川中島拠点海津(かいず)城(後の松代城)
現在は一般公開されていません
番組内でたびたび出てくる領土地図について
武田、今川、北条、上杉などの勢力範囲を示した地図がたびたび登場する。戦国時代は近代のような明確な国境はないため、これらは概ねの勢力範囲と思って頂きたい。
永禄3年の飢饉の異常気象~飢饉の記述の出展「妙法寺記」による

<登場人物の言葉、エピソードなど>
「風林火山」の旗印(孫子の旗)
「疾きこと風のごとく、徐か(しずか)なること林のごとし、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし」 恵林寺所蔵孫子の旗の文言。信玄は若いときから親しんでいた中国古典「孫子」の中の文言を旗印にしたと伝えられている。
信玄の遺言
「上杉謙信とは和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから頼ってゆけば、若いお前を苦しめるようなことはしないだろう。私は大人げないことに最後まで謙信に頼るということを言い出せなかった。お前は必ず謙信を頼りとするがよい。上杉謙信とはそのような男である。」(「甲陽軍鑑」品第39)

上杉謙信の、第3次川中島合戦の言葉
「信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして民衆の悲しみの声は絶えない。隣国の主としてこれを黙認することはできない」 謙信が弘治3年(1557年)12月に信濃国更級八幡宮に出した願文による。出典は「歴代古案」。

武田信玄の言葉
「敵に対しては勝ち過ごしてはならない。負けなければよい。」(「甲陽軍鑑」品第39)

上杉側に残る武田信玄襲撃の記述
「武田軍の囲みを破った上杉の家臣、荒川伊豆守は信玄に迫り、馬上から一気に信玄に切りかかった。信玄はその瞬間軍配で太刀を振り払った。その危機を見た武田の兵が伊豆守の馬を槍で突き、伊豆守は敗走。信玄はようやく危機を脱した」(上杉家御年譜)

上杉謙信が川中島合戦の後出した書状
「ご苦労のおかげで凶徒を多数討ち取り、年来の本望を達した」 謙信が永禄4年9月13日、武将垂水源二郎に出した書状による。新潟県関川村、せきかわ歴史と道の館で常設展示されている。
 

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