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第121回
小次郎 敗れたり
~決闘巌流島-宮本武蔵の執念~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:慶長17年(1612)4月13日 |
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出来事:
宮本武蔵、巌流島で佐々木小次郎を倒す。 |
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剣豪・宮本武蔵、一世一代の名勝負、巌流島の決闘。しかし、その実態は講談や小説によって潤色され、数々の謎に満ちている。宮本武蔵は本当に遅れて参じたのか?なぜ城下ではなく離れ小島で決闘が催されたのか?そもそも佐々木小次郎とはいったいどんな人物だったのか?等々・・・今回の番組では、武蔵について入手しうる限りの資料を集め、実際に武蔵が歴史に残した足跡を丹念に訪ね、史実に近い武蔵の真実の姿を探ていく。剣
の力で身を立てることを目ざしていた武蔵は、巌流島にいたるまで自らの名前をアピールするために強敵との戦いを繰り返す。吉岡一門との戦い、宝蔵院の槍の使い手、鎖がまの手法など、壮絶な戦いの過程で編み出された「二天一流」を駆使し、武蔵は細川藩のもとで催された巌流島の決闘に臨む。当時、武蔵は30歳前後。剣士として最も脂の乗った時期だったが関ヶ原の戦いから十年余を経て、自らの腕一本で一国一城の主に立身出世することができる時代はすでに終わりを告げていた。この時、武蔵はわずか一撃で小次郎を倒し、剣豪としてゆるぎない評価をえる。が、なぜか望むような仕官はできず、以後、派手な決闘をやめてしまう。 |
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番組の内容について
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ねらい:
宮本武蔵が巌流島の決闘で佐々木小次郎を倒し、その剣の実力を証明したにもかかわらず、どの大名家にも仕官(就職)できなかったことを描き、巌流島の決闘が、立身出世に象徴される戦国乱世の時代の終わりを意味することを描く。
巌流島はどこにあるのか?
山口県下関市と、福岡県北九州市の間、関門海峡にある無人島です。所在地は下関市彦島字船島で、現在は巌流島が一般的な通称です。渡し船で島に渡ることが出来ます。
詳しくは下関市産業経済部観光振興課へ
TEL0832-31-1350
「お通」は実在したのか?
吉川英治さん原作の『宮本武蔵』には、武蔵を慕う女性としてお通が登場します。しかしこの女性は吉川さんが創作した架空の人物で、史料的な裏づけはありません。武蔵の生涯には、女性の姿は見られず、お通も実在の女性ではありません。
ちなみに吉川さんの『宮本武蔵』は、講談社から「吉川英治歴史時代文庫」で刊行されています。
宮本武蔵を知るのにいい本は?
『宮本武蔵のすべて』新人物往来社 岡田一男・加藤寛 編
『図説 宮本武蔵』 河出書房新社
戸部新十郎
『別冊歴史読本 宮本武蔵』 新人物往来社
『宮本武蔵』 朝日文庫
司馬遼太郎
『五輪書』 岩波文庫、ニュートンプレスなど
小次郎が真剣で立会いを望み、武蔵が木刀で応じるというやりとり
「小倉碑文」(こくらひぶん)という武蔵の足跡を刻んだ顕彰碑に記されてます。
「小倉碑文」は武蔵の没後9年、武蔵の養子・伊織(いおり)が建てたもので、武蔵の事跡を知る上で貴重な記録です。
「小倉碑文」は、北九州市小倉の手向山(たむけやま)公園にあります。
JR小倉駅からタクシーで約20分です。
宮本武蔵の肖像
熊本県熊本市 島田美術館所蔵
〒860-0073
熊本市島崎4-5-28
TEL 096-352-4597
武蔵の生年
現在、武蔵の生まれた年については、二説あります。
本能寺の変が起きた天正10年(1582)と、天正12年(1584)です。天正10年は「宮本家系図」、天正12年は武蔵が晩年に著した『五輪書』からの逆算です。
武蔵の出身地
武蔵の出身地については二説あります。『東作誌』(とうさくし)という記録では美作(みまさか)国、現在の岡山県北部、『五輪書』には播磨の国、現在の兵庫県に生まれたとされています。
『兵法太祖武州玄信公伝来』(へいほうたいそ ぶしゅうげんしんこう でんらい)
(通称『丹治峰均筆記』(たんじほうきん ひっき))
この史料は江戸時代の中頃(享保12年・1727)に書かれた武蔵の事跡を記した史料です。番組で紹介したものは、熊本・島田美術館所蔵の写本です。
武蔵の父・無二が武蔵に小刀を投げたエピソード、武蔵のはじめての決闘・有馬喜兵衛との闘いの様子が詳しく書かれています。
「小倉碑文」
武蔵が新当流の使い手・有馬喜兵衛と決闘したことが記されています。
「小倉碑文」については、オープニングVTRの説明参照。
関ヶ原の戦い
現在、武蔵は関ヶ原の戦いに参加したということが通説になっています。
「小倉碑文」にも、石田三成が立ちあがったとき、武蔵は勇ましく戦った旨の内容が記されています。
三成方西軍・家康方東軍いずれに組したのかははっきりしていませんが、中国地方の出身であることから、西軍・宇喜多秀家の軍勢のなかにいたろうとされています。
『二天記』(にてんき)
江戸時代の中頃にまとめられた武蔵の伝記。武蔵の伝記としてまとまった記録。番組で紹介したものは、熊本・島田美術館蔵。
映画『宮本武蔵 般若坂の決闘』
監督:内田吐夢(とむ)、主演:中村錦之助
東映のビデオで見ることができます。
東映株式会社 TEL03-3535-7674
武蔵と吉岡一門との決闘について
「小倉碑文」『二天記』などに詳しく記されています。番組ではその双方にのっとりました。
八大神社
武蔵が吉岡一門との三度目の決闘の際、立寄ったとされる神社。
所在地:京都市左京区一乗寺松原町1番地
TEL075-781-9076
武蔵は神社へ祈るのをやめた際の言葉
「自分は日頃、神や仏を敬ってこなかった。いまここで急に祈ったところで、神や仏が聞いてくれるはずがない。なのに神仏にすがろうとするのは、自分がおじけづいているからだ」
原文:
「我常に仏神を信仰せず、今この難をはばかって敬祷すとて神それ受けめや、ああ怯し」(『二天記』)
吉岡又七郎について
又七郎が当時何歳であったか定かではありません。記録には清十郎の子どもと記されています。
武蔵が、奈良で槍の達人や、伊賀の国で鎖鎌の使い手と勝負したことは『二天記』に記されています。
『二天記』については上記参照。
「二天一流」(にてんいちりゅう)について
武蔵の編み出した剣の流派は「二天一流」です。
「二刀流」というのは厳密にはただしくありません。
『兵道鏡』(へいどうきょう)
武蔵が記したとされる剣術書で、原典は残っていません。
番組で紹介したものは、その写本です。個人蔵で非公開。
佐々木小次郎について
小次郎については詳しい生まれや出身地、経歴などはわかっていません。番組では『二天記』をもとに、小次郎を細川藩の剣術指南役としました。
記録をもとに再現された小次郎の刀
熊本市・島田美術館蔵。
島田美術館については上記参照。
小次郎の刀は三尺=90cm以上と「小倉碑文」にあります。当時通常の刀は、二尺三寸=
およそ70cmとされていました。
小次郎の「つばめ返し」について
「つばめ返し」については詳しいことはわかっていません。しかし、並外れた長刀を使っていたことから、相手の間合いの届かない場所から攻撃する剣技であったと想定されています。
武蔵が、細川藩の家老に小次郎との試合を願い出た言葉
「巌流・小次郎が小倉におり、その術は類まれであると聞きました。願わくば、腕を比べさせていただきたく存じます」
原文:
「岩流小次郎今この地に留まりぬ。その術奇なりと承る。ねがわくば吾手技を比べんことを」(『二天記』)
武蔵が自ら削ったと伝えられる木刀
細川藩の家老を務めた松井家の遺品を保管する松井文庫に遺されています。
展示については、松井文庫に問い合わせてみてください。
松井文庫
所在地:
熊本県八代市北の丸町3-15
TEL0965-33-0171
『沼田家記』
細川藩の門司城代を務めた沼田家の家譜。元禄年間成立。
熊本大学附属図書館蔵
巌流島の決闘については諸説あります。番組では以下の説を紹介しました。
「小倉碑文」=武蔵と小次郎が同時に島に到着
『丹治峰均筆記』=武蔵が小次郎より先に島に到着した
『沼田家記』=島には武蔵の弟子たちが隠れていた
『二天記』=武蔵が決闘の時刻に遅刻した
このように、巌流島の決闘には諸説あり真相は定かではありません。番組ではこのうち『二天記』が『五輪書』と呼応していると考え、『二天記』をもとに決闘の様子を再現しました。コメントでも「再現」と表現し、これが史実だとは断定していません。この点、ご注意下さい。
決闘の日時については『二天記』によれば、慶長17年(1612)4月13日。約束の刻限は辰の上刻=朝7時でした。しかし武蔵が現れたのは、巳の刻過ぎ=朝9時過ぎです。
番組で紹介した『五輪書』の記述
「むかつかすると云事」=相手を怒らせると解釈できる
「うろめかすと云事」=相手をうろたえさせて動揺させると解釈できる
小次郎の遺髪を埋めたと言い伝えられる墓について
所在地:
山口県阿武町
連絡先:小次郎慕古の会
TEL08388-5-0028
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二天一流野田派、二刀神影流鎖鎌術について連絡をとりたい方は、番組担当者まで
その他、番組に対するお問い合わせは担当部局まで。
〒150-8001NHK放送センター 教養番組部
「その時歴史が動いた 宮本武蔵」班
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