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第126回
緊迫の二十四時間
~新資料が明かす二・二六事件の内幕~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:昭和11年(1936)2月27日
午前8時20分 |
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出来事:昭和天皇、奉勅命令を親裁し、許可する |
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昭和日本の運命を決定づけた二・二六事件。昭和11年2月26日、陸軍の青年将校が重臣たちを殺害、軍主導の政権を作ろうとした近代日本最大のクーデター未遂事件である。これまで事件当時の映像はごく限られたものしか知られていなかったが、近隣の住民が撮影した16ミリフィルムが残っていることが最近明らかになった。四谷周辺を慌しく行きかう鎮圧軍の装甲車や、何がおきたのかわからず戸惑う市民、そして事件が収拾して銃機関銃を運び撤退する兵士たち等々、当時の混乱を生々しく伝えている。また去年11月、岡田啓介首相の娘婿で当時、首相秘書官だった迫水久常が事件を回想した証言テープも国会図書館から公開された。そこには迫水氏が三十年後の公開を条件に語った、岡田首相救出の舞台裏や、事件勃発直後、事態収拾に右往左往する軍首脳部の混乱振りなど、事件の渦中にいた当事者ならではの貴重な証言が残されていた。首相不在という権力の空白の中で事件はどのように終息に向かったのか?番組では、近年公開された新資料を交え、二・二六事件の内幕を詳細に見つめ、日本の歴史を動かした緊迫の24時間のドラマを描く。 |
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番組の内容について
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<今日の「その時」と番組のねらい>
昭和日本の運命を決した二・二六事件。多くの謎に包まれているこの事件に関して去年、新たな資料があいついで発見・公開されました。市民が16ミリフィルムで撮影した事件の映像と、首相秘書官、迫水久常氏が30年後の公開を条件に残した証言テープです。これらの資料をもとに事件に新たな光を当て、緊迫の一昼夜のドラマを描きます。
「緊迫の二十四時間」という副題はどういう意味か?なぜ、「その時」が27日なのか?
昭和11年(1936)2月26日未明の事件勃発以後、26日の間は決起部隊の行動を是認するかのような「陸軍大臣告示」や、決起部隊を正規の軍隊の一部として組み入れる「軍隊に対する告示」が出されるなど、直ちに断固鎮圧する動きは鈍いものでした。
それが、翌27日の午前8時20分に、昭和天皇が奉勅命令を親裁したことにより、事態の趨勢の流れが断固鎮圧へと大きく変わっていきます。(実際に、奉勅命令が下達されたのは28日午前5時8分)このことから、事件のターニングポイントとして、「その時」を2月27日午前8時20分に設定しました。この奉勅命令の親裁にいたる一昼夜の予断を許さない状況を象徴的に示す言葉として「緊迫の二十四時間」という副題をつけました。
今回、紹介された市民が16ミリフィルムで撮影した映像はどういうものか?
事件当時、新宿区四谷に住んでいた村上源七さん(特殊化学塗料会社経営)が撮影しました。前年の秋にカメラを購入しホームムービーとして撮影していたところ、事件に遭遇しました。番組で紹介したフィルムの箱には、「昭和11年2月19日 大吹雪 及び 二月二十六日大事件 二十九日写す 二・二六事件」と書かれています。
撮影場所は、主に現在の新宿区四谷と港区赤坂。番組でお話を伺った村上謙吉さんは、撮影者、村上源七さんの御子息で当時、9歳でした。プライベートに撮影したため、検閲にかからず、保存されていたものです。
首相秘書官の証言テープはどういうものか?
国立国会図書館では、おもに昭和40年代に、昭和史の重要事件の関係者の談話を、30年後の公開を条件に録音しました。今回、紹介したテープは、事件当時、内閣総理大臣、岡田啓介の首相秘書官を務めていた迫水久常(さこみずひさつね)氏が昭和47年10月に録音に応じたもので、2002年11月に公開されました。内容については、国会図書館で速記録を閲覧したり、録音を視聴することができます。
詳しくは、国会図書館政治史料課憲政資料係
(03-3581-2331 内線27410)へお問い合わせ下さい。
<番組で紹介した主な史料・場所>
映像を解説していたのは、厚生労働省・昭和館図書情報部長 戸高一成さん
昭和期の軍関係の映像に詳しい方です
2月26日に決起部隊が襲撃した政府高官
*内閣総理大臣 岡田啓介~首相官邸を襲撃。
しかし、誤認して、義理の弟、松尾伝蔵予備役大佐を射殺。岡田首相は難を逃れ、翌27日に脱出に成功
*大蔵大臣 高橋是清~私邸を襲撃し、射殺
*内大臣 斎藤実~私邸を襲撃し、射殺
*侍従長 鈴木貫太郎~私邸を襲撃し、重傷を負わせる
*教育総監 渡辺錠太郎~私邸を襲撃し、射殺
首相秘書官の迫水久常氏が語った証言の抄訳~概要は、前項をご参照ください。
*事件が起きたときは、まさか軍隊が出てくるとは思わず「万事休す」と感じた
*(官邸に入り首相生存を知ったのち外へ出たとき)かわいらしい二等兵がついてきた。なぜここへ来たのか、と聞いたら「野外演習」と答えた。「あなた方は総理大臣を殺した」と言ったら非常に驚いた。兵隊の末は、何がなにやら全く分からず「上官の命令が即ち朕の命令と心得よ」という通りの行動だった
*(午前11時すぎ、迫水秘書官が宮内省で湯浅倉平宮内大臣に首相生存を報告)湯浅宮内大臣は非常に驚かれた。陛下は「岡田啓介を一刻も早く安全な場所へ移すように」というお言葉であった。陸軍の中に理解のある人がいないかと思ったが、湯浅宮内大臣は「今、軍の人はどっちが敵か味方か分からないからそういう軍に話をすることはおやめなさい」ときわめて明瞭に湯浅さんが言われた
26日午前8時30分頃 首相官邸で真崎甚三郎大将と磯部浅一の対面する場面
磯部浅一の手記「行動記」より
26日午前9時頃 川島陸軍大臣が参内し、昭和天皇に拝謁。
状況説明の後、青年将校の決起趣意書を読み上げる~侍従武官長 本庄繁の「本庄日記」より
この時、高宮太平「軍国太平記」によれば、次のようなやりとりがあったという。
川島陸軍大臣「こういう大事件が起こったのも現内閣の施政が民意に沿わないものが多いからだと思います。国体を明徴にし、国民生活を安定させ国防の充実を図るような施策を強く実施する内閣を早く作らねばならぬと存じます」
昭和天皇「陸軍大臣はそういうことまで言わないでもよかろう。それより反乱軍を速やかに鎮圧する方法を講ずるのが先決要件ではないか」
26日昼過ぎ 皇居で陸軍上層部が軍事参議官会議を開く
「軍事参議官会議」とは~本来は天皇の求めに応じて、重要な軍務について意見を上奏する機関。このときは昭和天皇の臨席のないまま、非公式に開催され、事態の収拾策が話し合われた。
会議の様子を見ていた迫水秘書官の証言の抄訳
*かわいそうに思えたのは川島義之という陸軍大臣。皆から勝手なことを言われて呆然としていた。
*荒木大将、真崎大将、林大将、みんなだんだんに集まってこられましたけれど、いずれも態度が不鮮明。反乱軍に同情的だと印象深く覚えているのは、山下奉文少将。方針が決まらないで全く頼りない人たちばかりだなという印象。
・会議の結果、作られた文章~いわゆる「陸軍大臣告示」。その中には「諸子の行動は、国体顕現の至情に基づくものと認む」という一節がある。また、同じ頃、香椎浩平東京警備司令官は「軍隊に対する告示」を出し、決起部隊を正規部隊の一部として認め、占拠地帯の警備に当たらせるという驚くべき指示を出す。
26日午前、陸軍の一部の決起に対し、海軍は陸戦隊(軍艦から陸上に派遣する部隊)を横須賀から東京へ送っていたが、海軍に首相救出を頼んだ迫水秘書官の証言
*大角岑生海軍大臣に総理生存の旨を伝え、海軍の陸戦隊が首相を救い出す方法はありませんか?と相談したところ、大角大将はびっくりし、「君の言ったことは聞こえなかったよ。もしそういうことをしたら陸海軍の戦争になるだけ」と回答。「非常に頼りが無いなあ」とがっかりした。
27日午前2時40分 宮中で開かれていた枢密院会議が戒厳令の施行を決定
午前3時50分 緊急勅令によって公布
27日午前8時20分 昭和天皇、奉勅命令を親裁。
内容は「戒厳司令官(=香椎浩平)は、三宅坂付近を占拠しある将校以下をして速やかに現姿勢を撤し、各所属師団長の隷下に復帰せしむべし」
以後、鎮圧を速やかに進めよと命じる天皇と、説得によって鎮定しようとする
本庄繁侍従武官長の間で緊迫した会話がなされる。(以下、「本庄日記」より)
本庄「彼らの行為は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、もとより許すべからざるものなるも、その精神にいたりては、君国を思うに出でたるものにして必ずしも咎むべきにあらず」
昭和天皇「朕が股肱の老臣を殺戮す。かくの如き凶暴の将校等、その精神においても何の許すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」
本庄「彼ら将校としてはかくすることが国家のためなりとの考えに発す次第なり」
昭和天皇「それはただ私利私欲のためにせんとするものにあらずといいうるのみ」
また、本庄日記には、次のような一節が記されている。
「…この日、陛下には鎮圧の手段実施の進捗せざるに焦慮あらせられ、「朕自ら近衛師団を率いこれが鎮定に当たらん」とおおせられ、真に恐懼に耐えざるものあり」
以後、鎮定に向けての動きが急になり、29日午後2時頃までに決起部隊の兵士たちは原隊への復帰を果たす。これを受けての迫水秘書官の証言の抄訳
*この二・二六事件は、若い連中が真崎大将あたりの煽動に乗って、真崎大将が自分たちの頭領になってくれると確信して、そして真崎大将の了解を得ることなくスタートした。だから、起きた後は真崎大将が一番困った。陸軍の将領の行動は極めて不可解。前後脈略のない行動をしている。天皇陛下が討伐をお命じになってから初めて奉勅命令、討伐が決まって「反乱軍」という言葉が出てきた…
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