その時歴史が動いたDVD第130回 真田幸村どん底からの挑戦~家康を追いつめた伝説の名将~日本NHK纪录片

 

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その時歴史が動いた  DVD

第130回
真田幸村 どん底からの挑戦
~家康を追いつめた伝説の名将~ 

松平定知 アナウンサー
番組概要
その時:慶長20年(1615)5月7日
出来事:大坂夏の陣で真田幸村が徳川本陣へ突撃
 豊臣と徳川の最後の戦い、冬・夏二度の大坂の陣。圧倒的に不利な豊臣軍の中で、一人巧みな戦術を駆使して敢然と立ち向かい、徳川軍を大混乱に陥れた武将がいた。真田幸村だ。
幸村が生まれた真田家は、奇抜な戦術と外交の知恵で、小国ながら戦国の世をしぶとく生き残ってきた。幸村の父・昌幸は老獪な戦術で真田家の独立を守り、兄・信之は徳川体制の下で大名として存続する。しかし幸村は、大坂の陣で不利を承知で豊臣方に味方し、徳川との戦いに人生を賭けた。その戦いぶりは、小が大を制す、巧みな奇襲戦法だった。
幸村に苦戦した徳川方から、幸村に寝返りの誘いがくるが、幸村は断る。「武士としての面目を立ててくれた豊臣のために最後まで戦う」。それが幸村の決意だった。
幸村は、最後まで豊臣方として戦い続け、ついには家康に死すら覚悟させる。幸村の思わぬ奮戦に、家康は改めて徳川の支配強化の必要性を認識せざるを得なかった。一方で幸村の奮闘ぶりは「日本一の兵(つわもの)と評され、反体制のシンボルとして歌舞伎などでも語り継がれていく。幸村が命を賭した最後の突撃で徳川の支配体制に一石を投じた瞬間を描く。
番組の内容について
 エピローグで流れた幸村最後の言葉について
「さだめなき浮世に候(そうら)へば 一日先は知れず候(そうろう)我々事などは浮世にあるものとおぼしめし候まじく候」
<意訳>
さだめない浮世ですから、一日先のことはわかりません。我々のことなどは浮世に生きているものとはおぼしめし下さいますな。
※ 慶長二十(1615)年三月拾日付け 大坂夏の陣の二ヶ月ほど前の幸村直筆書状からです。
九度山時代に書いた幸村の手紙について
「とかくとかく年のより申し候こと、口惜しく候。」「去年よりにわかにとしより、ことのほか病者(びょうじゃ)になり申し候。歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候。」
<意訳>
とにかく年の寄ったことが残念です。
去年から急に年が寄り、ことのほか病身になり、歯なども抜けました。ひげなども、黒いところはあまりありません。
※ 慶長十七、八年頃と思われる幸村の手紙より
大坂の陣の後、徳川方の書物に記された言葉
「関東勢(かんとうぜい)少し敗北の処(ところ)」『駿府記』より
兄・信之が語った幸村像について
「幸村こそ、一国を領するに価する器、天下に武名が響き渡るにふさわしい男であった。」
『真田史料集・幸村君伝記』より意訳しています。
幸村の兄・信幸(信之)の名前について
兄は、関ヶ原合戦以後、名前を信幸(のぶゆき)→信之(のぶゆき)と改めています。番組でも関ヶ原以後は信之と表記しました。
「幸村」は本当の名前なのか?
幸村は、幼名・源次郎、後に信繁(のぶしげ)といい、文禄3年(1594)、豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に任ぜられました。また、幸村の手紙にも「左衛門佐信繁」とあります。大坂城入城後「幸村」と改名したとも言われますが、はっきりしたことはわかっていません。番組では一般化した名「幸村」を使用しています。
幸村ほか登場人物の年齢について
全て数え年で数えています。尚、「数え年」とは、生まれた年を一歳とし、以後、正月になると一歳を加えて数える年齢のこと。
幸村の父、兄について
父・真田昌幸(まさゆき)
天文16(1547)年、真田幸綱の三男として生まれる。初代上田城主。関ヶ原合戦で西軍・石田三成に味方し、所領を没収され、紀州で幽居した。この地で慶長16年(1611)没した。
兄・真田信幸(信之)(のぶゆき)
永禄9(1566)真田昌幸の嫡男として生まれる。初代松代藩主。関ヶ原合戦では、父や弟・幸村と分かれ、徳川家康に味方した。元和8年信濃国松代に移封、92歳まで藩主をつとめ、93歳で没する。
父・真田昌幸が関ヶ原合戦前、親子が分かれる時の言葉
「か様の時に父子引き分かれ候も、家の為には良きこともあるべし。」
このような時に親子が(東西に)分かれることも家のためには良いこともあるかもしれない。
『長国寺殿御自蹟稿之九』より意訳しています。
牢人(ろうにん)という表記について
「牢人」とは、主家を去って俸禄を失った武士という意味。江戸時代中期以後はほとんど「浪人」という字を用いるようになりましたが、「浪人」の字義は、本来は本籍の地を離れて流浪する浮浪の者の意で別儀。
よって、今回は舞台が江戸時代中期以前であるため、「牢人」の字を用いています。ちなみに牢人とは、領地や地位・俸禄などを失って落魄(らくはく)することを牢籠(ろうろう)といい、牢籠としている人すなわち牢籠人が縮まって牢人の語となりました。(『国史大事典』より)
大坂、大坂城の「坂」という文字について
明治以後「阪」の文字を使用することになりましたが、江戸時代までは「坂」と表記しました。よって大阪の表記は「坂」とし、大阪城も「大坂城」としました。
「黄金200枚、銀30貫」について
「当座の音物」として黄金二百枚、銀三十貫を贈った」『駿府記』より意訳
現代の金額にしておよそ9億円にあたるとも言われています。ただし、様々な方法での計算ができ、一通りではありませんが、ここでは真田氏研究者・小林計一郎さんの説を参考にさせていただきました。


【番組でご紹介した幸村ゆかりの場所について】
三光(さんこう)神社・真田の抜け穴について
所在地:大阪市天王寺区玉造本町 三光神社 06-6761-0372
幸村が城中との連絡のために掘ったと伝えられる横穴がある。
真田丸について
幸村が大坂城の外側に築いた出城。
所在地:大阪市天王寺区 真田山公園付近、最近の調査では明星高校の敷地辺りと推測されています。
松代城について
所在地:長野市松代町   
※現在一部工事中 
問い合わせ:長野市観光課 026-224-5042
真田宝物館について
問い合わせ:長野市松代町 026-278―2801 火曜定休
石田三成からの勧誘状(レプリカ)が展示されています。
また今年9月に「真田家の茶と能」展が開かれる予定です。
上田城跡について
問い合わせ:上田市観光課 0268-23-5408
上田市立博物館
上田城跡公園内にある博物館 水曜定休
問い合わせ:0268-22-1274
幸村の供養塔について
所在地:長野市松代町 長國寺(ちょうこくじ)
026-278-2454
幸村の兄・真田信之をはじめ真田家代々藩主の墓所の中に幸村の供養塔も建てられている。
拝観可能 

歌舞伎「鎌倉三代記」について
天明元年に人形浄瑠璃として初演されたと言われる。略して「かまさん」とも呼ばれる人気演目の一つ。
大坂の陣での真田幸村や木村重成、千姫、そして徳川家康らをモデルに、豊臣方が家康の暗殺を企てるという物語。しかしこのまま徳川幕府の下で上演するわけにも行かず、時代を鎌倉時代に、人物名も幸村を佐々木高綱、家康を北条時昌などに変えて上演したもの。
「不思議な言い伝えの箱」について
寝ずの番がついたといわれるほど大事にされ、参勤交代の折には藩主が江戸へ持っていったとも言われる箱。「吉光御腰物箪笥」箱。石田三成ら西軍から真田家への勧誘状などが入っていた。
長野市松代町の真田宝物館にて公開されることもあります。
幸村の生まれた所について
群馬県甲府で生まれたという説が有力ですが、確定的ではないために、番組内では出生地を明確にするのを避け、真田氏の本拠地としての長野県小県(ちいさがた)郡真田町の紹介にとどめました。

その他
「表裏比興の者」
天正14年8月豊臣秀吉から上杉への手紙で、真田昌幸のことを「表裏比興」と称している。裏表があって不都合な、心のいやしい、信用できない者という意味
家康が10万石、信濃一国で寝返らないかという誘いについて
『慶長見聞書』より
家康の誘いを断る幸村の言葉
「武士としての面目を立てていただいた身、この御恩は土地や金には到底かえられない。」
『真武内伝』より意訳しています。
大坂夏の陣、家康本陣突撃の時の幸村の言葉
「今は是までなり。最後のいくさを快くなすべし。」『武徳編年集成』より
 

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