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第137回
信長と家康、そして同盟は幻と消えた?
~長篠の戦い、戦国を変えた両雄の決断~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:天正3(1575)年 5月21日 |
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出来事:長篠設楽が原の戦いで信長・家康連合軍が武田軍に勝利する |
戦国時代、若き日の徳川家康の領国・三河に最強軍団をうたわれた武田騎馬軍団が迫った。
家康は、同盟を結んでいた隣国・尾張の織田信長に援軍を求める。しかし裏切りが当たり前の戦国の世、信長は援軍に応じてくれるのか。またその援軍は間に合うのか。長篠・設楽が原の合戦に至るまでの家康と信長の絆のドラマを描く。
桶狭間の戦いで信長が今川義元を討ち取ったことで、今川からの独立を果たした家康。その2年後、信長と家康は同盟を結んだ。その二人の前に立ちはだかる最大の脅威、武田軍。家康は、三方原の戦いで、信長の忠告を無視してまで武田信玄に戦いを挑み、大惨敗を喫する。 最近発見された信長直筆の手紙によれば、信長は家康を「体たらく」と酷評している。揺らぐ二人の信頼関係。
さらに、家康には信長を裏切れという誘いもある中、家康は信長を信じて待った。再び迫り来る武田軍団。徳川方の防衛の拠点・長篠城が陥落寸前に陥った時、家康は信長をどこまで信じて待つのか。そして信長は動くのか。
20年以上の長きにわたり同盟関係を維持した織田信長と徳川家康。その異例ともいえる強固な絆の裏にあった二人の虚々実々の駆け引きに焦点をあて、二人が戦国最強軍団を打ち破る瞬間を描く。 |
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番組の内容について
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長篠、設楽原合戦場(愛知県 新城市)
JR「三河東郷」駅から北に1kmほどの所が設楽原(したらがはら)で、連吾川を挟んで西側に織田・徳川連合軍が馬防柵を築き、鉄砲隊を配置して武田軍を迎え撃ちしたという舞台。一部に当時の馬防柵を再現し保存されています。
合戦について詳しく知りたい方は・・・・
設楽原の馬防柵の近くに「新城市設楽原歴史資料館」があります。ここには合戦についての詳しい展示、図書文献類も閲覧することができます。
徳川家康の呼称について
徳川家康は、もともとは竹千代から松平信康、そして徳川家康へと名前が変わっているが、番組では、混乱を避けるため「家康」で統一いたしました。
家康と信長との同盟(清洲同盟)について
記録としては「武徳編年集成」に詳しく記載されています。
武田信玄肖像について
武田信玄の画像として最も有名なものとして、高野山成慶院蔵の長谷川等伯(信春)筆のものがあります。しかし近年この画像に関して、信玄の画像とすることに異論がでているため、今回、持明院所蔵の武田信玄の肖像画を使用しました。
近年発見された信長の書状について
浜名湖美術博物館に、現在所蔵されています。文章そのものは知られていましたが、証拠の現物が見つかったのは8年ほどまえとのことです。
信長の援軍2万について
「武徳編年集成」の記述に基づきました。
信長が鉄砲をあらかじめ用意していたかについて
5月10日に援軍要請というのは、「松平記」に家康が信長に援軍の要請をしたとの記載に基づきました。さらに「信長公記」によれば、信長は13日に岐阜を出陣しています。3万の軍勢、しかも1000丁とも3000丁ともいわれる鉄砲をこのわずかな期間では集めることは困難です。当時、長島の一向一揆を平定し、武田との戦いに戦力をさく余裕もありました。こういったことから、対武田を想定しての兵力準備に関しては不明ですが、少なくとも、鉄砲をはじめ、軍事に関してはあらかじめ準備を進めていたと考えられます。
家康軍における信長への疑念について
「武徳編年集成」において、信長出馬に対して、「疑惑の機あり」と記されています。
●登場人物の言葉、エピソードなど
徳川家康が後年語った言葉
「一には、人を選ぶなり。能き人を持つ時は、一切我云うにおよばず。
天下を治むることはとりわけ我が智恵を立ててはならぬことなり。
人の非をたやすくとりあぐるべからず。思う程の事叶ふは其の中にあり。」
「家康公逸話集」「徳川家康の言葉」より抜粋引用。
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