その時歴史が動いたDVD第142回 高杉晋作、50倍の敵を制す必勝戦略~幕末長州-奇跡の逆転劇~日本NHK纪录片 

 

日本NHK纪录片

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その時歴史が動いた  DVD

 第142回
高杉晋作、50倍の敵を制す必勝戦略
~幕末長州-奇跡の逆転劇~

松平定知 アナウンサー
番組概要
その時:慶応2(1866)年 8月1日
出来事:第二次幕長戦争で、幕府本陣・小倉城が炎上。長州藩が勝利を収める
 幕末、日本の改革を目指す長州藩を認めまいと、大軍で攻め込んだ江戸幕府軍。わずか50分の1の戦力でこれを迎え撃つは、高杉晋作。絶望的な情勢にもかかわらず、高杉は秘策の数々を駆使して、ついには幕府軍に圧勝する大逆転を成し遂げた。高杉の「小よく大を制す」作戦とは、どのようなものだったのか?
圧倒的と見られた幕府軍と長州藩の戦力差であったが、その内実は対照的であった。長州軍の兵は、数は少ないものの故郷防衛の士気が高く、高杉は彼らの負傷や疲労まで気を配り、できるだけ消耗させずに、有効に攻撃をくりだしていく。一方の幕府側は、幕府の命令によってかき集められた諸藩の兵たちであり、士気の低さや命令系統の乱れなど巨大組織ゆえの矛盾やスキが潜んでいた。高杉は周到な情報網から幕府の弱点を見つけ出し、少数の兵で鋭く切り込んでいく。
 わずか千人の部隊を巧妙に運用し、5万の幕府軍に打ち勝った、高杉流必勝法。番組は、長州軍と幕府軍の戦いを通して、少数精鋭の組織の真の強さ、巨大組織の機能不全という現実を浮き彫りにして、組織を活かす決断とはどのようなものかを検証する。
番組の内容について
「動けば雷電のごとく発すれば風雨のごとし」
下関市・東行墓にある墓碑銘より。銘文は伊藤博文による。
原文は「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」。「衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや」と続く。

高杉晋作肖像写真
港区立港郷土資料館所蔵
   

松平キャスターのリポート場所
北九州市門司港、ハイマート展望台にて。関門橋の西側。松平キャスターが背にしている陸地が山口県。


高杉が兵を挙げた功山寺
所在地:下関市長府川端1丁目
  

第二次長州征討の開始時期
長州征討命令は既に前年に発令されているが、その後長期間にわたる長州藩との外交交渉が行われ、会談決裂を経て諸大名に対して攻撃を命じられるのは慶応2年6月である。


徳川家茂肖像
徳川恒孝氏 収蔵
   

下関と小倉の距離
現在の下関市役所の位置から小倉城までの直線距離を計測した。


松平キャスターのリポート場所
山口県下関市壇之浦町みもすそ川公園。


「壇之浦」の表記について
今月放送した「その時歴史が動いた・源義経」では、歴史的表記として紹介したため、教科書などを参考に
「壇の浦の戦い」と表記した。今回は、現在の地名として紹介しているため、現地・下関市の表記「下関市壇之浦町」にしたがった。


関門海峡の測量地図(名称「御城山ヨリ馬関彦島沖測量図」)
下関市立長府図書館収蔵
   

往来手形
個人所有の史料であり、一般展示はしていない。問い合わせは豊浦町教育委員会。なお「漁民スパイ説」は「豊浦町史」の記載に基づく。また、高杉がもっぱら間諜を用いて情報を得ていたことは「郷土物語」ほか複数に記載があり、これら文献は敵地の情報獲得はこうしたルートによるものが大半であるとしている。


奇兵隊日記の記述
番組で紹介した該当部分は下記の通り。
「大里より一ノ木戸迄野戦砲八門有之」「小倉入込惣勢揃七千人位之由」。


小笠原長行肖像写真
唐津市・唐津市教育委員会収蔵
  

長州は戦わずして降伏すると考えて小笠原を派遣したと考えられる
開戦間際まで幕府は長州とぎりぎりの交渉を展開し、大軍をバックにしながら実際の戦闘を回避しようと試みており、その交渉担当者が小笠原であった11という歴史的事実から上記の表現をとった。


諸藩は犠牲を払うことは極力さけようとしていた
「肥後藩国事史料」巻6に見られる、諸藩の征長反対建白書に基づいた。


「高杉の下に、幕府軍が6月18日をもって攻撃を仕掛けてくるという情報が入る」
坂本龍馬筆「下関長幕海戦図」より、「7月18日は小倉より長府を攻むると聞こゆるより17日の暁天この方より攻めたり」という記述に基づいた。


高杉が小笠原に贈った漢詩
原文は以下の通り。
相対屹然已一年(相対して屹然(きつぜん)たることすでに一年)
両軍未見起烽煙(両軍未だ烽煙の起こるを見ず)
寄言上国賢丞相(言(げん)を寄す上国(じょうこく)の賢丞(けんしょう)相(じょう))
早合抛書提鉄鞭(早(つと)に合(masa)に書を抛(なげう)って鉄(てつ)鞭(べん)を提(ひっさ)ぐべし)

  <直訳>
向かい合って動じないことすでに1年、両軍はいまだのろしがあがるのを見ていない。大国の賢い大臣に申し上げる、早く書物を投げ捨てて鉄の鞭をとりなさい。
「丞相」の読みについては、江戸期の発音に基づき、「しょうじょう」とした。


「小倉戦争差図書」。全文は以下の通り。
今や攻めいらんとする勢いを見せつくる時は、かの城内もたまりかね、強者は城外に進み戦うならん。弱者は退き走るならん。吾はいよいよ実に彼を誘い出し、歯使(はし)を一本ずつ折るが如く彼が力をさき、枝葉よりついに根本に至らんを目をつけ攻むるなるべし。


兵に休息を与えて次のチャンスに備えるのが目的だった
原文は以下の通り。
「疲労の兵士をもって大里を襲いかかりもし誤りて敗北にいたらば大勝も悉く水泡と相成」


豊津高校
所在地 福岡県京都郡豊津町大字豊津973


小笠原文庫
小倉藩が明治維新後藩庁を豊津に移転し、この豊津に藩校「思永館」をおいたのが高校の前身となった、という所縁から、旧小倉藩の史料・文物を「小笠原文庫」という形で保存している。この場合の「小笠原」とは小倉の領主であった小笠原家であり、唐津の領主であった老中小笠原長行とは親戚関係にあるが別家である。なお文庫は一般公開しておらず、同窓会が管理を行っている。


「豊倉記事」における嘆願書
番組で紹介した部分は以下の通り。
一 小荷駄備附武者奉行大池襲馬 島村志津摩 大目備付鷲見与兵衛同道にて小倉表へ罷越 左之通嘆願書差出之
嘆願書覚
是非共今日中肥後柳川千人組他の新手等を繰出し交代の事
一 度々申上候通り 昨今の形勢に付てはいよいよ以て私闘の形に相成り 皇国の御為とは申し乍ら 続く軍兵も無之一向に勝算無之処より 恐れ乍ら日夜士気憂憤此上慰撫致し難く 依て事止む得す押て前文の通り嘆願奉り候(以下略)


「富士山丸」の読み方
「ふじやままる」を採用した。明治以降「丸」をはずしたさい、「ふじやま」と呼称されており、明治に入りわざわざ読み方を変えた(つまり、もとの読み方は「ふじさんまる」であった)という推測については他の軍艦にそのような事例を聞かず、きわめて考えにくい、とするのが専門出版社20の見解である。


富士山丸写真
呉市企画部海事博物館推進室収蔵
  

小倉兵の手記
「小倉藤田弘策日誌」。明治になって再編集された従軍記録。引用部分は下記の通り。
命を幕府に受け、束縛せらるる所多く、(また)決心の薄きは当然の理なり。【中略】気緩み、兵怠る。
なお原文は所在不明であり、「福岡県史史料」に転載のものより引用した。


「奇兵隊日記」の記録
「奇兵隊日記十六聞取書」より。原文は以下の通り。
向地時情概略
一鍋島之出張兵国元引取之様議決候由随いて久留米大村素より同論之
一肥後も同様出兵引取之議(後略)


ロケを行った場所
北九州市小倉北区大谷の高台より。


松平アナウンサーがリポートを行った場所
小倉城天守閣前。なお松平アナもコメントしているが、現在の天守閣は昭和34年に復興されたもの。小倉城炎上当時、小倉城に天守閣はなかった。(小倉戦争以前に、既に焼失している。)番組のコメントは天守閣が炎上で焼失したという誤解なきよう配慮した表現である。


「止戦の約束」
字幕では「止戦の約束」とした。この話し合いの際に長州側の代表であった広沢真臣や山県有朋が「止戦」と言う表現を使っていることから、歴史用語として使用した。
数え年である。27年と7ヶ月の生涯を生きた。


桜山神社の招魂場
文久3年(1863)高杉晋作の発議により、殉国の志士の神霊を祀るため築かれることとなり、慶応元年(1865)落成した。住所は下関市上新地2-6-22。


高杉の漢詩
全文は次の通り。
猛烈奇兵何所志(猛烈の奇兵何の志す所ぞ)
要将一死報邦家(一死をもって邦家(ほうか)に報いんと要す)
可欣名遂功成後(欣(よろこ)ぶべし名遂げ功成るの後(のち))
共作招魂場上花(共に招魂場上の花と作(な)らん)
読みは同全集ならびに広辞苑に拠った。  
 

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