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第163回
新選組 最後のサムライたち
第二部
死闘編
武士道に死す |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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第二部 死闘編「武士道に死す」
その時:慶応4年(1868)4月25日 |
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出来事:近藤勇、処刑される |
幕末から明治にかけて、最後まで反幕府勢力と死闘を繰り広げた新選組。そこに集ったのは、局長・近藤勇以下、農民や浪人など社会の底辺に生きる若者たちだった。国の行く末を憂えた彼らが政治に参加する唯一の道。それは、剣の腕前を上げることしかなかった。幕府が初めて公募した将軍の護衛役に近藤たちは勇んで志願し、遂に念願を果たす。しかし、幕府によって抵抗勢力との戦いの矢面に立たされた彼らは、何のために戦うかというビジョンを持てぬまま、悲劇の結末へと巻き込まれていく。
番組では、近藤が胸中を綴った書簡や隊士の記録などをもとに、幕閣が官僚化し、武士道が失われていた幕末に、一生懸命に志を掲げ、国に尽くそうとした近藤たちの「けなげさ」と、その純粋な思いがやがて幕府中枢に利用され、理念を持てぬまま、最後のサムライとして死に追い込まれていく「哀しさ」を二部構成で描く。 |
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番組の内容について
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「新選組」は「新撰組」が正しいのではないのか
どちらでも間違いではありません。当時から両方の表記を用いています。
新選組の公印がしんにょうであること、近藤勇の書状にもしんにょうで記されていることなどから、今回はしんにょうで統一しました。
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大河ドラマと番組の関係
「その時歴史が動いた」では、これまでにも新選組に関する番組を放送して参りましたが、毎回視聴者の皆様からの反共が大変高く、更に新選組を取り上げて欲しいとのリクエストを多数頂いておりました。今回大河ドラマの放送を目前として新選組を再度取り上げて欲しいとの声が一段と高まったことを受けてスペシャル番組を制作致しました。
大河ドラマ「新選組!」は、1月11日(日)夜8時から総合テレビで放送開始です。
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新選組にまつわる様々なエピソードが紹介されたが、何に依拠しているのか?
新選組の編年的な事跡については新選組研究者の菊地明、伊東成郎、山村竜也氏の編纂による「新選組日誌」(新人物往来社)および三氏の著作に依拠した。近藤勇の思想・行動については幕末史研究家・松浦玲氏の「新選組」(岩波新書)および松浦氏のご助言に依った。その他の参考文献については末尾を参照。鳥羽伏見・勝沼など戊辰戦争の戦史的な記述については大山柏著「戊辰役戦史」を参考にした。
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番組の映像で使用していた映画は?
「新選組」第一部・第二部 東映ビデオ(株)
「新選組血風録」(全13巻)
東映ビデオ(株)
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「武士」「侍」の定義は?新選組隊士が武士になったという表現があったが、新選組隊士の多くは元々「浪人」つまり武士だったのではないか?
今の番組では「武士」「侍」という言葉は「正式に仕官した武士」の意味で用いています。新選組に集まった浪人の過半数は、武士身分ではありましたが、仕官の経験がありませんでした。したがって今回の番組では、幕府に仕官したことをもって出世の範疇に
入れました。
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スタジオに登場した近藤勇が用いた「鉢金(はちがね)」はどこで見ることが出来るか
福島県会津若松市白虎隊記念館で常設展示されています。
休館日など詳しいことは白虎隊記念館(℡0242-24-9170)までお問い合わせ下さい。
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山南敬助の脱走の場面で、「元治2年2月」というテロップが出たが、「慶応元年」の間違いではないか?
西暦1865年は途中で元号が代って元治2年から慶応元年となりますが、2月にはまだ改元されていないので、厳密には元治2年が正確です。
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禁門の変での新選組の活躍とは?
諸説あるが、新選組は御所の堺町門付近の日野資宗邸で潜伏する長州勢と交戦したとされる説が有力である。(菊池明著「図説雑学 近藤勇」 他)
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禁門の変の後、新選組は幕府から直々に現在の価値で2千万円近い報奨金をもらったと言うが根拠は?又どのように現代の価格に換算したのか?
禁門の変後、新選組が幕府から直接貰った金は600両である。(この時期会津藩からも報奨金を受け取っているが、それは除外した。)
江戸時代の通貨両(りょう)と、現代の通貨円の換算法は以下のように算定した。
通常、江戸時代の金1両は、およそ10万円として計算されることが多い。しかし、幕末の開国・通商開始以降、物価高によって両の価値は急落し、米価を基準にした研究では、
文久3年(禁門の変の前年)の1両を2万円から3万円程度とする試算がなされている。これに従うと、600両は1200万円から1800万円になる。これにより、当時の
600両の価値を「2000万円近い」とした。
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将軍から新選組に下された書状の内容
「すみやかに出陣し、多数敵を討ち取った比類無き働き、神妙なり」(要約)
(元治元年8月15日 「新選組日誌」より)
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新選組の組織改革のCGについて
新選組は何度も組織改革を繰り返すが、ここで示したのは元治元年12月の改革。
「わかる!新選組」(PHP)所収「新選組の組織変遷」を参考にした。
それぞれの部隊の隊士のコマ数が4になっているのは煩雑さを避けるための図示上の便宜によるもので、実際にそれぞれの部隊に従属する隊士数が必ず4名だったわけではない。(この段階では平隊士の総数が39名なので、一つの組に所属する隊士の数はおよそ4~5名程度だったと考えられているが、隊士の所属は流動的なので○番隊の定員が○人というように確定することは困難である。)
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近藤勇の幕府への上申書
「われわれは日本のため、異国を打ち払うという志を以って浪士隊に応募した。
都の市中見回りを勤めるのは仮のことと考えている。もし幕府に、異国打ち払いの意志が
ないなら、ただちに新選組に解散を命じて頂きたい」(元治元年5月3日、近藤勇の老中への上申書より要約)この時期同様の意見を近藤はしばしば発言・記述している。
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山南敬助(やまなみけいすけ)の脱走についての隊士の記録
「山南はかねてから、近藤が異国打ち払いという新選組本来の志に背き、単なる幕府の手先となって功名を急ぐのを、あきたらないと思っていた。」(永倉新八「新選組顛末記」より)
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山南敬助(やまなみけいすけ)の脱走および死の解釈について
山南の死については様々な解釈がなされてきたが、今回は、攘夷(じょうい)を忘れた幕府に無批判に従属する近藤を批判した行動との永倉新八の解釈並びに松浦玲氏の学説を取った。詳しくは「新選組顛末記」(永倉新八)および松浦玲著「新選組」(岩波新書)を。
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近藤が騎馬のうえ、従者を従え外出するようになったとあったが?
隊士島田魁を始めとした証言によるが、いつ乗馬行動を始めたかは諸説があって定かではない。
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近藤が訪れた幕府や諸藩の重要人物とは?
元治元年9月、幕府老中松前伊豆守、10月お抱え医松本良順を訪問した他、後には土佐藩士後藤象二郎を訪れている。
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伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の名前および出身藩
「イトウキネタロウ」と読んでいる文献もあるが「イトウカシタロウ」が正しい。
伊東の出身藩は、「常陸志筑(しずく)藩」。「シズキ」としている書物もあるが、吉川弘文館国史大事典に依拠し「シズク」藩と読んだ。
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伊東の忠告に対する近藤らの反応
「近藤・土方は徳川家の行く末を見極めることができず、ただ、武道で他人を制圧することだけを考えている。」(「秦林親日記」より 要約)
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近藤らが幕府の武士に取り立てられた時の格式
局長近藤に与えられた格式は、「見廻組与頭格」。旗本に当たる格付け。
・副長土方は「見廻組肝煎り格」。副長助勤の沖田総司らは「見廻組格」、
いずれも旗本に次ぐ御家人の格式。
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近藤の年収は現在の価値でおよそ1千万円とあったが、その根拠は?
近藤に場所高として支給されることになった給与米は、通説によると300俵(600俵とする書物もある。)。米300俵(1800キログラム)は現在の銘柄米の米価で換算(10キログラム5956円)するとおよそ1千万円になる。
この試算は「図説江戸2大名と旗本の暮らし(学研)」による。
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近藤は徳川慶喜の大政奉還の発表の場にいたのか?
松浦玲氏の研究によると、当時の近藤の「御目見得以上(おめみえいじょう)」つまり旗本という格式は、在京幕臣への大政奉還発表に出席していて当然の立場であるとのこと。詳しくは松浦氏著「新選組」(岩波新書)参照
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薩摩・長州藩の軍を「新政府軍」「倒幕軍」と呼ばず「反幕府(軍)」と呼んだのはなぜか?
慶応3年10月の大政奉還発表から慶応4年1月の鳥羽伏見戦争に至る時期の、
薩摩長州軍への呼称は適当な呼称が見あたらない。大政奉還で幕府は形式上すでに存在しないので「倒幕軍」とは言えず、また明治新政府はこの段階ではまだ確立していないので「新政府軍」とも言えない。そこで便宜的に「反幕府軍」と呼称した。
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鳥羽伏見の戦いの後の土方歳三(ひじかたとしぞう)の言葉
「銃や大砲に、剣と槍で立ち向かうことは、もはや無意味となった。」(要約)
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鳥羽伏見の戦いの後の大阪城での近藤勇の言葉
「おめおめ敵に降伏するようでは末代までの恥辱である。
たとえ二三百の兵でも、城に立てこもって戦い抜き、割腹して果ててみせる」
(「新選組日誌」参照)
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新選組が大阪から江戸に撤退した日付は
近藤・土方(ひじかた)を乗せた富士山丸の出航は1月10日。(隊士の中には順動丸に乗船し1月9日に出航した者もいる)
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近藤の甲府出撃を認めた幕府重臣とは勝海舟のことではないのか。なぜ著名な勝の名をあえて伏せたのか?
近藤を江戸から追い払ったのは長らく勝海舟とされていたが、最近の松浦玲氏の学説によると近藤の出撃を認めたのは勝ではなく大久保一翁であるとのこと。(「新選組」岩波新書)このためあえて勝の名は出さなかった。
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新政府軍(官軍)の進撃ルートを示したCGについて
このCGでは近藤が出撃した甲府を通るルートのみを記した。
この他、東海道を通るルート、東山道(中山道)を北回りで行くルート、日本海を海路で行くルートなどがあったが、煩雑なため割愛した。
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近藤の辞世の句
「孤軍、援絶えて俘囚となる。 顧みて君恩をおもえば涙、更に流る。
義を取り、生を捨つるはわが 尊ぶところ。 快く受けん 電光三尺の剣。
ただまさに一死をもって君恩に報いん。」(原漢文より一部抜粋)
※原文は漢文のため様々な訓読がありえますが、今回は木村幸比古氏「新選組局長近藤勇」
(淡交社)の訓読に依りました。
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近藤の触書に書かれた言葉
「近藤勇、右の者元来浮浪の者」 (「江湖新聞」より)
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函館、五稜郭での土方歳三の言葉
「もし我が軍が降伏し、新政府軍と和睦でもしたら、
地下にいる近藤にあわす顔がない。」
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エピローグで紹介された映画は?
「新選組血風録」昭和40年に民放で放送され人気を博した。
主演、舟橋元、栗塚旭
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エピローグで紹介された、近藤が故郷に贈った漢詩
「丈夫、志を立てて東関を出ず。宿願成る無くんばまた還らず。
報国尽忠三尺の剣。十年磨きて腰間にあり。」(原漢文より抜粋)
※原文は漢文のため様々な訓読がありえますが、今回は木村幸比古氏「新選組局長近藤勇」
(淡交社)の訓読に依りました。
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