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第175回
女優誕生
~マダム貞奴、「オセロ」初演の時~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:明治36(1903)年2月11日 |
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出来事:川上貞奴が「オセロ」を演じ、日本に女優が誕生した |
明治36年、東京・明治座で画期的な芝居の幕が開いた。演目はシェイクスピア悲劇「オセロ」。
ヒロインは、パリ万博帰りの川上貞奴。それは歌舞伎の女形の伝統を持ち、江戸時代から女性が舞台に立つことは御法度とされてきた日本に、初めて、「女優」が誕生した瞬間だった。
貞奴が芝居の世界に足を踏み入れたのは、自由民権運動の壮士劇の演出家、川上音二郎と知り合ったことがきっかけだった。音二郎は貞奴と共に、旧態然とした日本の演劇を刷新しようと夜逃げ同然に日本を飛び出し、アメリカ、ヨーロッパを巡業した。その時、貞奴が目にしたのが、女性が女性を演じる「女優」の姿だった。芸者や心中物を中心に海外巡業を続ける貞奴と音二郎。日清戦争の勝利で日本への国際的関心が高まっていた事もあり、二人の出し物を英国王室も鑑賞、フランスでは勲章までもらい、貞奴の名を冠した香水まで売り出される大ブームとなる。しかしこの時、貞奴の演技はまだとても近代的女優といえる代物ではなかった。凱旋帰国するも、貞奴は「芸者とハラキリを主題にした国辱ものの舞台を行った女」という非難の中、舞台に立つ事をあきらめる。このまま日本での女優の誕生はたち消えるかに見えた……
番組では、日本初の女優となった川上貞奴が、近代演劇の礎を築こうとした夫・音二郎と共に、困難の果てに初舞台に挑むまでの軌跡を、去年ドイツで新発見されたヨーロッパの舞台の録音や英国王室、ピカソ、ロダンなど著名な芸術家との交友記録などから検証、世界に日本の芸能を紹介し、日本の女性表現者の草分けとなったマダム貞奴の挑戦を描く。 |
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番組の内容について
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ドイツで発見された新資料について
発見されたのは、ドイツ・ベルリン民族学博物館の録音資料館。東西ドイツの分裂で長らく散逸していた録音資料がドイツ統合後にこの資料館に集まったことを機に資料の再調査が始まった。今回発見された貞奴の肉声は、これまでも存在は知られていたが、再生の回転数が特定されていなかったため誤った速度で再生されており、男性の声だとされていたが、博物館学芸員のチーグラー女史、ケルン大学で日本学を専攻するフリッチュ女史の再研究により、女性の声であること、そして録音当時の状況証拠からマダム貞奴の声であることが特定された。発見の日付は、フリッチュ女史などがこの事実をマスコミなどに公にした時期(2003年4月)に従った。
●貞奴を讃えたジイドの言葉について①
「彼女は絶えず美しい。絶え間なく、絶え間なく、その輝きを増していく」
(アンドレ・ジイド「アンジェルへの手紙」より)
●貞奴を讃えたジイドの言葉について②
「彼女の身振りには、いささかの不調和もありません。古代の大悲劇の神聖な感動を、我々に与えてくれるのです」
(アンドレ・ジイド「アンジェルへの手紙」より)●川上座「オセロ」を評した坪内逍遙の言葉
「とかく優人の技量が足らぬと、悪落ちになりかねないのがこの作の難しいところで、ハムレットは下手がやっても不思議に見物の同情を引くが、オセロはよほどの腕利きがやっても、嫉妬煩悶の辺が危なく、同感は得にくいらしい」
(「歌舞伎」明治三六年三月号「坪内博士のオセロ談」より)
●貞奴を評した文学者たちの言葉
「(貞奴の演技は)精神から来て、身体を動かさずに、対話で来たのだから良い」
(「歌舞伎」明治三六年三月号「オセロの劇を見て」依田学海より)
「もっとあどけなく、言動に無邪気が見えねばならぬ。つまりもっと甘えるところがなくてはならない」
(「歌舞伎」明治三六年三月号「坪内博士のオセロ談」坪内逍遙より)
●川上座「オセロ」を評した森鴎外の言葉
「一座は、観客を喝采させ、笑わせ、泣かせている。(その芝居は、)あらすじの運び方だけで、観客を動かす力があるということがわかる」
(「歌舞伎」明治三六年三月号「明治座のオセロ」森鴎外の口述筆記より)
●貞奴の最後の言葉について
「私が初めて舞台へ立った時分は、まだ珍しさ半分、いわば好奇心で私どもの演劇を見られたのでありました。」(「文芸画報」大正二年一一月号「女優としての私の覚悟」より)
「今、二人三人、私の方へ入りまして勉強している者もございます。まあ、追い追いと、お志のある方を誘い合わせまして、どうかして日本の女優も、馬車に乗って市中を歩くほどの、品位を持つようになりたいものでございます」
(「文芸倶楽部」明治三九年一月号「芸人出世譚」より)
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