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第184回
もう一つの日本を創(つく)った男
~平将門 東国独立政権の謎~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:天慶3(940)年2月14日 |
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出来事:平将門が戦死した時 |
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平安時代中期、日本から「独立」を果たそうとした男がいた。平将門である。将門の地盤である東国(現在の関東地方)では、民衆が朝廷から派遣される国司の暴政に苦しんでいた。地方の豪族をまとめ武装した平将門は、各地の国司を次々と追放、ついに朝廷に対して、歴史上例をみない方法で東国独立政権樹立を宣言する。天皇に対抗し、自らが「新皇」に即位したのだ。近年の研究で、この政権樹立が場当たり的なものではなく、周到に計画されものであった可能性がでてきた。武力だけでなく、将門は象徴権力として、八幡大菩薩を主神にして天皇霊に対抗。さらに当時朝廷が「たたり」を最も恐れていた「菅原道真の怨霊」を即位の儀式に召還し、朝廷を牽制。東国の民衆も新しい王、将門が、天皇に匹敵する権威を持つことに結束を高めてゆく。単なる反乱を超えた将門の、新国家樹立による挑戦に朝廷は追いつめられる。朝廷は、全国の寺社に将門調伏の祈祷を命令。さらに前代未聞の秘策をだし、将門政権をつぶそうと、なりふり構わない攻勢をしかける。将門の独立政権は如何に誕生したのか?そして朝廷の苦肉の反撃の秘策とは?この将門の反乱こそ、律令体制を揺るがし、貴族社会から武家社会へ移行する大きな歴史的転換点となった。最新の研究成果をもとに、平将門の乱を新たな視点から検証する。 |
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番組の内容について
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平将門の首塚はどこにあるのか?
東京都千代田区大手町1-1-1にあります。最寄り駅は東京メトロの大手町駅。近隣の地域の企業でつくる将門塚保存会が整備清掃にあたっています。参拝は可能です。
●「東国」とはどこのことをいうのか?
畿内から東の諸国を指す場合と箱根・足柄および碓氷以東の諸国を指す場合があり今回の番組では主に後者として言葉を用いました。現在の関東地方が該当地域にあたり、いわゆる関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)とよばれれる地域のことです。
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スタジオで紹介された将門の錦絵について知りたい(開始から3分頃)
スタジオのモニターで三点紹介しました。登場順に錦絵「百鬼(ひゃっき)夜行(やこう)・相馬(そうまの)内裏(だいり)」(歌川芳幾(うたがわよしいく)作)錦絵「相馬(そうま)の古内裏(ふるだいり)」(歌川(うたがわ)国(くに)芳(よし)作)錦絵「江戸の花『名勝会(めいしょうえ)』(歌川(うたがわ)豊国(とよくに)・歌川(うたがわ)貞(さだ)秀(ひで)・歌川(うたがわ)芳(よし)虎(とら)作)。いずれも岩井市蔵。
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「平将門の乱」ではなく「承(じょう)平(へい)・天慶(てんぎょう)の乱」ではないか?
承平5(935)年から天慶4(941)年にかけて平将門と藤原純友が起こした反乱をあわせて「承平・天慶の乱」と呼ぶ場合が多いようです。今回は平将門を中心に取り上げたので、「平将門の乱」という現を教科書でも使われていることから採用しました。
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農民たちが国司の横暴を訴えた書状とは?
尾張(おわりの)国(くに)郡司(ぐんじ)百姓(ひゃくしょう)等(ら)解(げ)文(ぶみ)です。また解文の文がなく尾張(おわり)国(こく)郡司(ぐんじ)百姓(ひゃくしょう)等(ら)解(げ)、尾張(おわり)国(のくにの)解(げ)文(ぶみ)などと表記される場合もあります。これは永延2(988)年11月8日に出されたもので、将門の乱から10年年代は下りますが、平安時代中期の国司と農民たちの関係を端的に示す書状として、将門の乱時代と同じ状況がしめされているという福田豊彦国立歴史民俗博物館名誉教授の助言をふまえ、当時の状況を示す史料として採用しました。
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軍記「将門記」とは?閲覧は可能か?
「将門記」は「平将門の乱」の詳細を知るためのほぼ唯一の史料です。番組も基本的にはこの「将門記」の記述にのっとって制作しています。乱の経緯や情景など詳しく描写されていますが、故事や比喩を多用する「軍記文学・軍記物」のさきがけとしても位置づけられています。番組では軍記物の略称「軍記」という言葉を用い、軍記「将門記」と紹介しました。平安時代に書かれたようですが成立年代には諸説あります。また作者は不明です。現存する写本は数点ありますが今回番組で引用した真福寺本(大須観音宝生院蔵・重要文化財)は最も古い写本の一つで承徳3年(1099年)書写の奥書があります。なお常設展示はされておらず実物の閲覧は通常、難しいようです。
なお番組内で「将門記」の記述の引用、意訳にあたっては、「東洋文庫 梶原正昭訳注
将門記」(平凡社)「真福寺本楊守敬本将門記新解」(村上春樹著 汲古書院)を参考にしました。
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将門の領地跡で発見された製鉄炉と工房の跡について?見学は可能か?
尾崎前山遺跡とよばれる遺跡で、9世紀に操業していた考えられています。将門の時代からは1世紀ほどさかのぼりますが、「将門も同様の施設をもっていたと考えるのが妥当」という指摘が国立歴史民俗博物館名誉教授福田豊彦さんはじめ研究者の方々から出されており、番組でも将門との関連性の中で紹介しました。VTRの映像で流れた製鉄炉は発掘成果を元に現地に復元したものです。見学は可能です。茨城県八千代町大字尾崎字前山404-4にあり、窓口は八千代町教育委員会になります。
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製鉄炉跡から10キロの地点で見つかった刀について、見学は可能か?
形状などから専門家により将門時代の刀と特定されたものです。個人蔵のため見ることはできません。また持ち主の方の連絡先もお知らせすることはできません。
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将門調伏の祈祷に用いた法具について、見学は可能か?
番組で紹介した、将門調伏の祈祷に使ったと伝えられている鈴は「松虫(まつむし)鈴(のれい)」と呼ばれ、埼玉県幸手市の宝生寺が所蔵しています。一般公開はしていません。
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将門追討の太政官符について、閲覧は可能か?
天慶3年(940)1月11日に出された将門追討の太政官符の写しは「本朝文粋」という平安時代後期の漢文集に収録されており、この「本朝文粋」の写しが数点残っています。番組で紹介した写しは鎌倉時代のもので、身延山久遠寺が所蔵しています。一般公開はしていません。
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将門の享年は?
将門の生年月日は不詳です。延喜3(903)年という説がありますが、確たる根拠はありません。番組では「国史大事典」「教科書」に準拠し生年月日は不詳の扱いにしました。
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秀郷等が貴族に登用される絵と将門の首が晒された絵について
前者は「俵藤太絵巻・栃木県立博物館本」で江戸時代の作。(栃木県立博物館蔵)後者は「平将門退治図会」で江戸時代後期の絵草紙本。(成田山霊光館蔵・写真提供 船橋市西図書館)。
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将門を祀る国王神社について
将門終焉の地とされる場所にたち将門を祭神にまつる国王神社は茨城県岩井市岩井951番地 にあります。参拝は可能ですが番組で紹介した「つなぎ馬の紋」は祭壇の最奥にあるため、通常は見ることはできません。
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将門ゆかりの地を訪問したい
将門の根拠地であり、終焉の地である茨城県岩井市には将門ゆかりの史跡が多く残っています。また岩井市では将門関連の資料を収集しており、史跡や資料の情報については岩井市のホームページからアクセスできます。http://www.city.iwai.ibaraki.jp/
<登場人物の言葉、エピソードなど>
●将門の首塚法会の新聞記事
昭和3年3月15日「報知新聞」より
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将門の人柄を評した言葉「侘人(わびびと)を済(たすけ)て気を述(の)ぶ。たよりなきものを顧(かえり)みて力を託(つ)
く。」
真福寺本「将門記」より引用。原本は大須観音宝生院蔵。以下「将門記」の原本蔵は左に同じ。
●常陸国を占領したあと将門が腹心に語った言葉「今すぐ東国諸国の国の印と倉の鍵をすべて奪い、
国司を都に追い返そう。そして東国を我らの手で治め、民を味方につけるのだ」
真福寺本「将門記」より引用し意訳。
●将門の軍勢の勢いを表す言葉「それぞれ竜のような駿馬にまたがり、雲霞のごときおびただしい従兵を従え、
万里の山をおもこえ十万の軍にも打ち勝とうという勢いであった」 真福寺本「将門記」より引用し意訳。
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朱雀天皇が将門の反乱に対し祈った言葉「今、平将門なる者が兵を挙げ、悪行をほしいままにし、国主の位を奪おうと企んでいます。どうかこの難儀をお払い下さい」 真福寺本「将門記」より引用し意訳。
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将門の陣営に巫女が現れ、将門に天皇の位を託宣するエピソード
真福寺本「将門記」より構成、言葉は引用し意訳。
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菅原道真の霊魂が将門に天皇の位を八幡大菩薩から取り次ぎ与えたエピソード
真福寺本「将門記」より構成、言葉は引用し意訳。解釈については「古代東国史の基礎的研究」(川尻秋生著)を
参考にしました。
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朝廷側が将門の反乱に対し加持祈祷で対応した時の様子を示した言葉「山々の阿闍(あじゃ)梨(り)は悪魔を祓い、
邪悪を滅ぼす法を修め諸社の神官達は、悪鬼(あっき)を直ちに滅ぼすための式神を祭った。」
真福寺本「将門記」より引用し意訳。
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将門が朝廷に向けて出した書状の内容「「昔から武芸に優れた者が天下を征する例は多くの
歴史書に見られるところであります。日本の半分を領有する天運がないとはいえますまい」
真福寺本「将門記」より引用し、再構成の上、意訳。
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将門追討の太政官符の内容「不次の賞」「もし魁帥を殺さば、募るに朱紫の品」「「普く遐邇に告げて、
この由を知らしめよ」
「本朝文粋」より引用、意訳。
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平貞盛が兵を集めた時の様子を示す言葉「群衆を甘言をもってさそい、その配下の兵は倍になった」
真福寺本「将門記」より引用し意訳。
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将門が兵を故郷に帰したエピソード。「将門記」には兵を帰したことしか記述していませんが、「農繁期が近づいていたから」という理由については研究者の方への取材からそのように構成しました。
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将門の最期を描いた言葉「馬が、風の様に飛ぶ歩みを忘れた時新皇に、神の射放った
鏑(かぶら)矢(や)が突き刺さった。
この時、新皇は、一人惨めに滅び去ったのである。」 真福寺本「将門記」より引用し意訳。
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将門の首が京の町に晒されたあとカラカラと笑って故郷東国に飛び去った伝説。
「前太平記」より引用し構成
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「神田囃子」 将門が出陣の時に打ち鳴らした太鼓が始まりと伝えられるお囃子。岩井市神田山地区にある「神田囃子保存会」が活動を続けています。茨城県無形文化財に指定されています。
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将門の悲劇を評した言葉「その悲しみは、開かんとするめでたき花がその直前に萎(しお)るるがごとく
今にも光り輝かんする月が思いがけず雲間に隠るるが如し」
真福寺本「将門記」より引用し意訳しました。原文は以下の通りです。
「(哀哉新皇敗徳之悲滅身之歎譬)若欲開之嘉禾早萎将耀之桂月兼隠」
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