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第192回
悲劇の英雄
~“アラビアのロレンス”の真実~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:1920年4月25日 |
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出来事:サンレモ協定 締結のとき |
映画で名高い「アラビアのロレンス」。砂漠の英雄として描かれてきたロレンスの知られざる実像に迫る。実在のイギリス軍将校だったロレンスは、アラブ民族の反乱を成功に導いた後、外交に舞台を移し、新国家イラクの誕生に関わるとともに、パレスチナ紛争の発端にも密接な関わりを持っていた。
第一次世界大戦当時、イギリス政府の密命を受けたロレンスは、アラブ民族の反乱を操る非情な工作員だった。しかし戦いの最前線で、独立を求めるアラブ人の純粋さに触れたロレンスは祖国の戦略とアラブの大義の狭間でジレンマに陥る。戦後のパリ講和会議。独立を約束したヨーロッパ列強は一転して、アラブ分割支配に動いた。その裏には、新たな戦略物資として注目を集めた石油が関わっていた。祖国の裏切りに直面したロレンスの選択、そしてロレンスを英雄に祭り上げたイギリスの真の狙いとは何だったのか。近年イギリスで公開された書簡をはじめ、さまざまな史料から、映画では描かれることがなかったロレンスの活動に光を当てる。 |
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番組の内容について
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ロレンスの人物評価について
ロレンスの歴史的評価は、現在も研究者によって大きな振幅があります。中東の歴史家スレイマン・ムーサ氏を筆頭に、(パリ講和会議以後も含め)ロレンスの行動が一貫してイギリスの国益をはかるために行われたという批判もあります。番組では、ゲストの臼杵陽国立民族学博物館教授や遺族公認の伝記作家ジェレミー・ウィルソン死氏の意見をもとに、ロレンスの視点から、当時の時代状況を再構成することに留意しています。
■その時:サンレモ会議とサンレモ協定について
「サンレモ会議」とは、イタリアのサンレモで行われた連合国最高理事会のことです。この会議において、英仏によるアラブ委任統治案が大国の総意として決定すると同時に、オスマン帝国支配下の石油利権についての英仏協定が結ばれ、中東支配の大枠が定まりました。なお「サンレモ協定」は、会議中、英仏間で結ばれた石油協定のみを指し示すこともありますが、この協定は委任統治案の決定と不可分のものであり、歴史家にもサンレモ会議の決定と同義のものとして用いられていることから、番組では「サンレモ協定 締結のとき」として総括しています。
■近年公開されたロレンスの書簡について
ロレンスの母校オックスフォード大学のボドリアン図書館所蔵。受取人のプライバシー保護のため、遺族の意思によって2000年まで一般公開が禁じられていました。18万点に及ぶロレンス関連資料を収集している同図書館には、番組でも紹介した手記「知恵の七柱」オックスフォード版(もっともオリジナルに近い)の生原稿など、一級資料が揃っています。事前に許可を得ることで、閲覧も可能です。
■ロレンスの言葉の引用・要約・翻訳について
番組では、短い時間内でロレンスの言葉のエッセンスをお伝えするため、前後の文脈にのっとり、原文の意味を損なわない範囲で、部分的な引用と要約(補足)を行っています。原文そのままの逐語訳とはなっておりませんので、ご了承ください。
■モニター内の現在の中東の地図におけるパレスチナ自治区ついて
イスラエルが中東戦争によって占領したヨルダン川西岸のパレスチナ自治区については、その事実を明示するために、地図上、境界線を引いて、ほかのイスラエル領土と区分けしています。
■第一次世界大戦の広がりを示した図について
吉川弘文館「世界史年表・地図」をもとに作成。ヨーロッパ・中東を二分した大戦の特徴を示すため、開戦当初ではなく、連合国と同盟国の陣容が確定した戦争後期の段階のものとなっています。
■「オスマン帝国」と「オスマン・トルコ」
従来、「トルコ」「オスマン・トルコ」の呼称を用いられていましたが、最近の教科書・研究書の表現にのっとり、番組では「オスマン帝国(Ottoman
Empire)」に統一しました。オスマン帝国が、トルコ中心主義をとったのは、19世紀末のことであり、もともとは民族の差異に重きをおかないイスラム帝国として発展した事実を尊重したことによります。
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オスマン帝国の総兵力について
リデル・ハート著『第一次世界大戦』所収の図表より、開戦時、「訓練を受けていた兵士の数」を総兵力として紹介しました。戦争の長期化にともない、最終的な動員数は200万をこえるものとなります。
■ロレンスのアラブ局勤務時の年齢について
アラブ局がエジプト・カイロに開設されたのは、1916年2月ですが、ロレンスが軍情報部から異動したのは、10月です。そのため27歳ではなく、28歳となります。
■「フセイン」と「フサイン」
従来、教科書では「フサイン」と表記されることが多かったですが、通常のアラビア語では「フセイン」のほうが原文に近い読み方だとされています(教科書でも現在は、「フセイン(フサイン)」となっています)。番組では「フセイン」に統一しました。
■「アラブ軍兵士の数」について
アラブ軍は戦闘にのみ参加する非正規兵の比率が高いため、正確な総兵力を割り出すことは困難です。番組ではロレンスがイギリスに報告した各部族の数を合算して「3万を超える」としました。最高で10万人近くの兵士が反乱に参加したと考えられています。
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「アカバ攻略における行軍の日程」について
5月に行軍を開始したものの、途中、ロレンス自身が別の任務のため、隊列を離れ、行軍が一時ストップしたため、純粋に部隊の移動に費やした「6週間」を採用しました。
■「ダマスカス一番乗りの日付」について
アラブ軍がダマスカスに入場した10月1日を解放の日とする見解もありますが、すでに9月30日のうちにアラブ軍の先遣隊が市内に突入を果たしていました。番組では、「一番乗り」の事実を重視し、9月30日を採用しました。
■「委任統治制度」と「分割支配」について
「委任統治」(Mandate)とは、住民による自治確立のための「過渡的な統治制度」として導入が進められました。その意味では必ずしも「列強による植民地分割支配」を示すものではありません。しかし、その導入が、住民の意思によって行われたものでなく、戦勝国から押し付けられたものであり、しかも委任統治の定めた境界が、民族ごとの生活圏を軽視し、大国の利害を反映したものであり、後の紛争の種をまいたことから、きわめて問題の多い制度と考えられています。
【番組で紹介したロレンスの言葉】
■1915年月 母親宛書簡:軍人という職業について語った言葉
「もし僕が戦場で命を落とすことがあっても、決して悲しむことはない。自分の祖国のために死ぬことは、ある種の特権なのだから」
■アラブ潜入工作員の心得:「Arab
Bulletin」所収「27箇条」より
「アラブ人を操る秘密の最初にして最後のこと、それは絶えず彼らを研究することである。相手の性格を読み取り、趣味と弱点を見つけ、発見したことの全ては自分の胸の内にしまっておくことである」
■ファイサルの人物評:手記「知恵の七柱」オックスフォード版より
「ファイサルこそ私がこのアラビアまで探し求めてきた男だ。彼こそアラブの反乱に完全な栄光をもたらす指導者だ。」
■1918年10月 友人宛書簡より:アラブ反乱に参加した兵士たちについて
「私が心うたれたのは、アラブ軍の兵士たちがなんら保証を求めることもなく戦いに加わってきたことだ。彼らは本当に可能な限りの力で戦った。彼らが命を捨てて戦う理由は、アラブに自由をもたらすことだけだった」
■1917年2月 母親宛書簡より:アラブ反乱に対する決意を語った言葉
「もはやまったく後戻りは考えられない」
「アラブの政治を除いては、どんな関心も自分にはない」
■イギリス外交の矛盾に対する苦悩:「知恵の七柱」オックスフォード版より
「アラブ人は制度でなく、人を信じる民族である。戦火の下の協力関係によって、アラブ人たちは私を信じるようになり、イギリス政府もまた私同様に誠意があるものと考え始めていた」
「しかし私自身はアラブ人と協力して遂行したことを誇りに思うどころか常に激しく恥じていたのだ」
■ダマスカス攻略におけるロレンスの決意について:手記「知恵の七柱」より
「私はひとつの希望をもって心の痛みを慰めようとした。それはこれらアラブの人々を死に
物狂いで指導して最後に勝利を収めることができれば、アラブ人の地位を確固たるものにすることができる。そうして戦い抜くことで、後の講和会議においても、祖国イギリスをも打ち負かすことができると考えたのだ」
■ダマスカス攻略におけるロレンスの決意について:手記「知恵の七柱」より
「ダマスカスは歓喜のるつぼだった。出迎えの群集は金切り声でファイサル…ロレンスと叫んでいた」「しかし戦いはまだ終わっていない。我々の目的は完全なアラブ人政府の樹立にある。それこそが反乱にかけた情熱を生かすに足りるただひとつの場所なのだ。」
■パリ講和会議におけるアラブの主張:講和会議議事録より
※ファイサルの演説をロレンスが通訳したもの。草稿を作る上で、ロレンスも参画しています。
「アラブ反乱軍の兵士たちは自由を勝ち取るために戦い、1万人が犠牲となった。」
「私が求めるのは全てのアラブ民族の独立である」
■1919年1月 母親宛書簡より:パリ講和会議における経過について語った言葉
「こちらでの仕事については、何もかもすべて順調です。懸案はほとんど解決しました。」
■英仏による委任統治についての批判:新聞に寄稿したロレンスの手記より
「アラブの反乱はアラブ人が独立を望んだために起こった。イギリス国王の臣下に、フランスの市民となるために、命を賭して戦ったのではない。彼らの目的は自分自身の戦いに勝利することにあったのだ。」
■アラブ反乱の挫折に対する感想:「知恵の七柱」オックスフォード版より
「あの荒れ狂う戦場で決して骨身を惜しむことなく、我々は生き抜いてきた」
「しかし、新しい世界が夜明けを迎えたとき、老人たちが再び顔を出し、われわれの勝利を取り上げたのだ」
番組中に登場した資料について
■ロレンスの書簡:オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵。
■ロレンスの手記「知恵の七柱」:オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵。
■アラブ反乱の前線を撮影したフィルム:イギリス王立戦争博物館所蔵。
■ロレンスの記録映画:ITNアーカイブ所蔵。
■パリ講和会議を撮影したフィルム:アメリカ国立公文書館所蔵。
■「27箇条」:イギリス国立公文書館所蔵。『Arab
Bulletin』60号所収。
■イギリスの石油探査報告書(1919/2/26):イギリス国立公文書館所蔵。
■「英仏石油協定」:イギリス国立公文書館所蔵。
■「パリ講和会議議事録」(1919/2/6):イギリス国立公文書館所蔵。ファイサル(ロレンス通訳)の演説が収められている。
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