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第215回
武田家滅亡の謎
~戦国最強軍団はなぜ滅びたのか~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:1582(天正10)年3月11日 |
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出来事:武田勝頼が自刃し、武田家が滅亡する |
鉄の結束を誇り、戦国最強と恐れられた甲斐の武田軍は、信玄の死後わずか10年で壊滅。武田家は滅亡した。その理由は、二代目・勝頼が軍団を統率できず、無謀な戦いを行ったためと、言われてきた。しかし近年の資料研究からは、新たな勝頼像が浮かび上がってきた。信玄にも出来なかった難攻不落の城を攻め落とす戦術。藩政に商人を登用するなど経済にも気を配る政治力。仇敵をも寝返らせる巧みな外交術・・・。しかし、そうならばなぜ、有能な2代目であったはず勝頼が武田家滅亡を導いた「無能」な2代目とされてきたのか?
4年前「勝頼は無能」という評判の背景に、あの織田信長が大きく関与していたと言う説が発表された。信長は、勝頼率いる強力な武田軍団との直接対決を避けるため、巧妙な情報戦をしかけ、勝頼を「薄情者」として喧伝。にせ情報に惑わされた武田勢は主君を信じられなくなり、内部崩壊したと新研究は分析する。
類い希な能力に恵まれながらも、時代の寵児・信長に「無能・薄情」な主君に仕立てられ、敗れた武田勝頼。そこには、名門の跡継ぎと、革新者との運命的な戦いがあった。番組は知られざる武田勝頼の実像から、武田家滅亡の真相に迫る。 |
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番組の内容について
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Q:天正9(1581)年3月22日の高天神城落城を武田家滅亡のきっかけとしたのはなぜか?
A:武田家滅亡のきっかけは歴史学者の間でも諸論があり、統一した解釈はありません。しかし主なターニングポイントとしては、天正3年の長篠・設楽原の敗戦、天正8年から始まった新府城の建設負担による家臣たちの疲弊、そして今回取り上げた高天神城落城があります。今回の番組は、今まであまり知られていなかった織田信長の水野忠重宛書状の読み解きがテーマであることや、武田勝頼の再評価をテーマに研究活動されている山梨大学講師・平山優先生の説を取り上げました。
Q:「甲陽軍鑑」は後世に書かれたもので、当時の一次史料としては信憑性を欠くのではないか?
A:「甲陽軍鑑」は武田家家臣・高坂信昌(春日源助)らが綴った手記を江戸時代の軍学者・小幡景憲がまとめたものだという解釈が一般的です。しかし、最近の国語学の研究では信玄、勝頼に関する記述に室町時代の文体の名残が見られ、ほぼ同時代(戦国末期)に書かれたものであることが判っています。ただし、書き始められたのが長篠の敗戦直後からと推定されていますので、多分に高坂の思いこみや推測が入っていたり、現存する古文書と照らし合わせると時系列がおかしい部分もあります。
▼信長の言葉
「勝頼、信玄にもまして油断ならず」
天正2年6月29日付け上杉謙信宛て織田信長書状より抜粋引用・意訳しました。
▼武田信玄の遺言・
「勝頼は、信勝が16になるまでの陣代とする」
「甲陽軍鑑」より抜粋引用。「陣代」には、代理当主、後見人といった意味があります。「信勝が成人するまで」としたのは、16才で元服することで成人と見なされるためです。
▼勝頼が信玄の家臣扱いだったことについて
勝頼は幼いときから諏訪家の跡継ぎとして育てられました。当初信玄は長男・義信を跡継ぎにするつもりでしたが、義信が謀反を企てたとして幽閉し、自害に追い込みます。信玄はやむを得ず勝頼を武田家に呼び戻し後継者にしようとしますが、結局代理という形にしたのは、家臣の反発を恐れた善後策であるという見方がなされています。
▼古くからの武田家の重臣たちは勝頼の当主就任に反発した
文献上、信玄の決めたこと(遺言)なので表だって反発する家臣は見られませんが、
「甲陽軍鑑」には、勝頼の側近を批判することで暗に勝頼のやり方に反発する記述が見られます。また、信玄の死後わずか数日で勝頼は重臣の一人、内藤修理に宛てて「お前のことは公平に扱う」という趣旨の血判状をわざわざ送っています。このことからも重臣たちと勝頼の間が当初からぎくしゃくしたものだったという見方が一般的です。
▼武田信玄の遺言・
「3年は信玄の死を伏せ、国内の充実を図れ」
「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳しました。
▼重臣たちの言葉
「信玄公の遺言通り、3年の喪が明けるのをお待ちになることです」
「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳しました。▼勝頼が信長を攻める決断を下したことについて
「甲陽軍鑑」では勝頼の失策として、信長家康への度重なる出兵が挙げられていますが、これは 長篠の敗戦後に書かれた結果論であり、勝頼が何を考え出兵したのかははっきりしていません。しかし当時の武田家は、信玄が死ぬ直前に大量の兵を雇ったこともあり、それらの兵士をどう食べさせるかという問題に直面していました。家中が分裂する中、まず国内をまとめよという信玄の遺言と重臣の判断は一見妥当なものに思われますが、勝頼を再評価する研究者の間では、国をまとめる戦国大名の立場に立てば、近隣諸国が国境を脅かす中、座して待つわけにはいかないという判断は真っ当であるという解釈が増えてきています。
▼飯羽間城(いいはざまじょう)の読みについて
現代の地名は「いいばま(いいはま)」戦国時代には「いいばさま」と読む例もあります。今回は「甲陽軍鑑」の記述に従いました。
▼勝頼をいさめる重臣の言葉
「信玄公は常々、余りやりすぎるのは良くないと申されていました」
「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳しました。
▼新参の家臣の言葉
「この戦は勝頼公の代替わりとなる大事な一戦。是非私どもにお任せ下さい」
「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳しました。新参の家臣という解釈については、申し出た人物が浪人衆や勝頼の旗本、外様の近衆であったこと、また信玄が死の直前、上洛作戦のために大量の新兵を雇ったことなどから、戦いに積極的だったのは、勝頼の代に変わり活躍の場を求めていた新たな家臣たちだったと解釈することができます。
▼高天神城攻めに際し、勝頼が家臣に宛てた書状の言葉
「小笠原の所望に任せ誓詞を遣わし候」
勝頼が城攻めの前線の家臣・穴山信君に宛てた書状より抜粋引用。
勝頼は小笠原長忠に降伏を勧め、駿河に新たな領地を与えると約束しました。
▼小笠原長忠の言葉
「今は、武田を恐れ援軍を送ろうとせぬ家康のために空しく死ぬときではない」
「武徳編年集成」より引用抜粋、意訳しました。
▼織田信長の言葉
「勝頼は表裏をわきまえた武将だ。油断ならぬ敵である」
天正2年6月29日付け上杉謙信宛て織田信長書状より抜粋引用・意訳しました。
▼重臣の言葉
「このままでは武田家は3年のうちに滅びるであろう」
「甲陽軍鑑」より引用抜粋。
▼長篠の戦いを前にした重臣たちの言葉
「御一戦、ご無用」
「甲陽軍鑑」より抜粋引用・要約しました。
▼戦いに勝機を見いだしていた勝頼の言葉
「織田方は手だてを失い、一段と逼迫している」
勝頼が天正3年5月20日、家臣・長坂長閑斎に宛てた手紙より抜粋引用・意訳しました。
▼「信長の陣地には機動力を封じるための周到な準備がなされていた」
設楽原の信長の陣には馬防柵のほか、堀が掘られていた事が分かっています。▼勝頼が家臣に宛てた軍役定書
天正4年、家臣・初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)に宛てた、軍備に関する命令書。長篠の戦い以前、武田家の軍役定書では鉄砲ではなく槍が筆頭に上がっていました。
▼「武士にしか許されなかった年貢の徴収や財政の運用を、都とのネットワークを持つ有力商人にまかせた」
武田家の年貢の徴収や財政運用を司る役人を「御蔵前衆(おくらまえしゅう)」と呼びますが、勝頼の時代になると勝頼に縁の深い諏訪地方の豪商や、都出身の豪商が名前を連ねるようになります。詳細は信州大学教授・笹本正治さんの著書「戦国大名の日常生活」(別途詳細)を御覧下さい。
▼信長の使者の言葉
「過去のことは水に流し、和睦を結びたい」
「甲陽軍鑑」より、抜粋引用・意訳しました。
▼信長の使者の和睦の条件
「ともに上杉を滅ぼした暁には、上杉の所領をすべてお任せしよう」
「甲陽軍鑑」より、抜粋引用・意訳しました。
▼上杉家の後継者争いをめぐる、武田家と北条家との関係悪化について
「甲陽軍鑑」には勝頼とその側近たちが、上杉家の後継者争いをしていた一方の当事者・上杉景勝の和睦の誘いに乗り、景虎を見殺しにしたと書かれていますが、近年の研究では、勝頼は出兵したものの、あえて跡目争いに巻き込まれることはせず、景虎と景勝双方の和解を目指していたこと、その過程で景勝の方が先に応じたことが判っています。勝頼は引き続き景虎への説得を試みましたが、景虎が折れる前に家康の侵攻にあい、国元へ引き上げざるを得なかったという事情がありました。実際、勝頼は景虎援護のため出兵したものの、本来駆けつけるべき北条軍が一向に来ないため、北条氏の態度に疑問を抱き、上杉和解の道をとったのではないかという説も出てきています。▼勝頼のもとに援軍を要請する使者が送られてきた
「甲陽軍鑑」には時期は特定されていませんが、天正8年から9年頃にかけ、高天神城から援軍要請の使者がやってきたことが記されています。
▼「甲陽軍鑑」に記された高天神城からのもう一つの密書
「この戦況で勝頼様が出陣なさるという危険を冒すくらいなら、この城を捨てて下さい」高天神城に派遣されていた家臣・横田甚五郎からの密書を抜粋引用・意訳しました。勝頼には高天神城救援の意志がありましたが、重臣たちの反対やこの横田の説得に、出兵を思いとどまったと「甲陽軍鑑」は記ています。
▼水野忠重宛信長朱印状について
以前からその存在は知られている文書でしたが、武田家滅亡と密接に関連づけて研究したのは、平山さんが初めてです。所蔵先は茨城県立歴史館(非公開)、文書の内容と要約は、「織田信長文書の研究」(詳細別記)で見ることが出来ます。原文を読んだだけでは意味が通りにくい文書なので、今回は平山さんの研究に従う形で文書の内容を意訳しています。詳しくは「新府城と武田勝頼」(詳細別記)の中の「武田勝頼の再評価」を御覧下さい。
▼信長方の記録
「武田勝頼は信長様の武威を恐れ、援軍を送らず、天下の面目を失った」
「信長公記」より抜粋引用・要約しました。
▼「信長の思惑通り、勝頼への信頼は失われていた」
平山さんによれば、高天神城を守っていた城将は、武田家臣の中でも駿河や信濃の身分の高い者たちでした。そうした重臣たちさえ見殺しにされた以上、武田家に未来はないという気分が武田 軍団の間に蔓延していたのではないかというのが平山さんの見方です。
信長軍の進撃にともない降伏、あるいは城を放棄することを「自落(じらく)」といいますが、家康が進撃した駿河方面でも、国境防衛ラインが次々と「自落」しました。
▼武田勝頼と妻の最後の会話
落ち延びる武田一族をかくまった尼僧の記録「理景尼記」より抜粋引用・意訳しました。
▼武田勝頼とその一族を供養する寺
山梨県大和村の「景徳院」です。信長が本能寺の変で死んだあと、家康が勝頼と妻子、そして殉死した家臣たちを弔うために建てた寺です。勝頼一家自刃の跡、供養塔(墓)、勝頼の妻の辞世の句の石碑などが見られます。武田信玄関連の物はありません。
▼勝頼の妻辞世の句
「黒髪の乱れたる世ぞはてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」
勝頼の妻の辞世の句は多くのものが後世に伝わっていますが、武田家滅亡を描いた江戸時代の物語「甲乱記」に載せられたもっとも代表的なものを選び、わかりやすく意訳しました。
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