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第216回
源義経
栄光と悲劇の旅路
第1回 西へ
戦いの彼方に |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:元暦2年(1185)3月24日 |
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出来事:義経、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす |
源義経の人生は、一万里、6000kmを超える流浪の旅路の中にあった。なぜ義経は、かくも壮大な旅を続けなければならなかったのか?番組では義経を「自分の居場所を探し続けた若者」ととらえ、その人生の旅の軌跡を2週にわたって取り上げる。
前編は、幼い頃の源氏離散からの流浪の旅、鞍馬から奥州平泉へ。そして平氏打倒への旅、黄瀬川、鎌倉、一ノ谷、屋島、壇ノ浦まで。義経が「源氏」という自らの出自との絆を取り戻そうと打倒平氏の戦いに身を投じ、兄・頼朝との葛藤に悩みながらも、栄光をつかむまでの道のりを追う。 |
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番組の内容について
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1里の換算について
1里が現在のほぼ4キロメートルに相当したのは、おおむね江戸時代に入ってからのことです。日本では、古くは奈良時代に定められた律令により、1里は現在のおよそ600メートルに相当しました。一方、義経の旅路は、京都の幼年時代から奥州平泉で自害するまでの行程を「吾妻鏡」などに基づき算出したところ、およそ6,000キロメートルでした。よって「6,000キロメートルは、ほぼ1万里」となり、今回の番組ではそのように表現しました。
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「壇ノ浦」の表記について
「だんのうら」には、「壇ノ浦」「壇之浦」「壇の浦」等、様々な表記があり、どれが正しく、どれが間違いということはございません。今回は、広辞苑および「国史大辞典」(吉川弘文館)で、地名・戦の名称として表記されている「壇ノ浦」で統一しました。■
「吾妻鏡」の書名について「吾妻鑑」のほかに、「東鑑」「東鏡」とも表記されます。
■ 奥州平泉のCGについて
現在行われている発掘調査をもとに岩手県平泉町が作成したもので、藤原秀衡時代の平泉の都の様子を想定しています。
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「平氏」の表記について
日本史の教科書および日本史学会では一般的に「平氏」「平氏政権」として表記、使用されています。それに準じ、番組内でも同様の扱いとしました。ただし「おごる平家は久しからず」などの慣用的な言い回しや「平家納経」などの固有名詞は「平家」と表現することにしています。
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「吾妻鏡」からの引用 *一部、現代語訳しています
・「頼朝に無断で官位を受けた義経を、頼朝は強く怒り、疑いを抱いた。」
・「殊に存念あり。一陣において命を棄てんと欲す(義経の言葉)」
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「屋島の戦い」の際の義経と梶原景時のやりとりについて
(「平家物語」からの引用・現代語訳)
「万が一の時、後退できるように船に逆櫓を取り付けてから出陣すべきである(梶原の言葉)」
「最初から逃げ支度など縁起でもない。あなたの船には百でも千でも、櫓を付けるがよい(義経の言葉)」
「ただ突撃するだけでは猪武士(梶原の言葉)」
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「壇ノ浦の戦い」の際の義経と梶原景時のやりとりについて
(「平家物語」からの引用・現代語訳)
「先陣ならこの義経がつかまつる(義経の言葉)」
「あなたは総大将ではないか(梶原の言葉)」
「総大将は鎌倉の頼朝様ただ一人である(義経の言葉)」
「このお方は生まれつき大将の器ではない(梶原の言葉)」
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「屋島の戦い」の際の義経と佐藤継信とのやりとりについて
(「平家物語」からの引用・現代語訳)
「もうお別れです」という継信に、義経は「思い残すことはないか」と尋ねた。「この後の義経様の栄光を拝見できない事が、唯一つの心残りでございます」と継信が答えると、義経の頬には、はらはらととめどなく涙が伝い落ちた。これを見て皆も涙を流し、こう言いあった。「この君のために命を失うことなど、露塵ほども惜しくはない。」
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