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第234回
戦国
出世の方程式
~藤堂高虎
大坂夏の陣の大勝負~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:慶長20年(1615)年5月6日 |
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出来事:大阪夏の陣で藤堂軍が大阪方の軍勢を破る |
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戦国時代、織田・豊臣・徳川のもとを渡り歩き、地侍から32万石の国持ち大名に上り詰めた藤堂高虎。なぜ高虎は“戦国の勝ち組”となったのか?自らの価値を上げるため10人の主君を変え、が必要となれば城作りを学んで築城の名手として地位を得ていく。しかし、秀吉の死後、家康の天下統一が進むなかで、高虎のこれまでの生き方は通じなくなる。そして迎えた大阪夏の陣。高虎は家康への忠義を示すため、命を賭した戦いに立ち上がった。藤堂高虎の「200ヶ条の家訓」をひもとき、戦国の出世の方程式に迫る。 |
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番組の内容について
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藤堂高虎を伝えるために根拠とした資料について
江戸時代にまとめられた藤堂藩(津藩)史料、および高虎の伝記にもとづいています。
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料 編・発行上野市古文献刊行会
原書:東京大学史料編纂所所蔵
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝 編・発行上野市古文献刊行会
原書:伊賀市上野図書館所蔵
○藤堂高虎について
1556年生―1630年没。戦国時代から江戸時代前期にかけ活躍した武将。
15歳で近江の地侍として初陣し、伊勢・伊賀を治める32万石の津藩主にまで出世しました。
生涯で仕えた10人の主君とは、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉、豊臣秀保、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光。
○「おおさかじょう」「おおさかのじん」の漢字表記について
・「大阪城」あるいは「大坂城」
現在の「おおさかじょう」は「こざとへん」の「阪」を使った「大阪城」と表記されていますが、明治維新までは「つちへん」の坂を使った「大坂城」と表記されていました。番組ではこうした事実にのっとり、「おおさかじょう」は「大坂城」と表記しました。
・「おおさかのじん」の漢字表記について
「おおさかじょう」の表記の原則にのっとり慶長19年~20年の出来事ですので「大坂の陣」と「つちへん」の大坂を用いました。
○乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦とは?
1615年5月6日、大坂夏の陣で二手に分かれた徳川軍の一方の先ぽうをつとめた高虎は、河内の八尾で大坂方の長宗我部軍を発見します。この時、両軍の間には湿地帯がひろがり、攻撃を仕掛けるのは困難な中、家康本陣を守るために高虎の決断で攻撃を始めた、いわゆる「八尾の戦い」での高虎の決断・行動を指しています。
○高虎が遺した家訓について
江戸時代に藤堂藩で編纂された史書「宗国史」(そうこくし)の中にある「遺書録」(いしょろく)に200ヶ条の家訓が書かれています。これは高虎が晩年、口伝したものを仕えていた家臣が記録したものといわれています。
「宗国史」だけの活字化された本は出されていませんが、この「遺書録」は、「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会)の中に原文を活字化されたものが書かれています。
さらに、200ヶ条の家訓を現代語訳したものが、三重県伊賀市の伊賀上野城において販売されています。
○慶長20年について、
この年、7月13日に「元和(げんな)」と改元されていますが、大坂夏の陣があった5月6日は「慶長(けいちょう)」です。
○藤堂高虎の身長や性格、藤堂家の過去、高虎の父に関して
高虎、及び藤堂家に関しては、江戸時代の藤堂藩(津藩)史料、および高虎の伝記にもとづいております。
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料 (編・発行上野市古文献刊行会)
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝 (編・発行上野市古文献刊行会)
○「地侍」について
戦国時代の「地侍」は、普段は農業などを営み、合戦となったときに懇意にしている大名などに陣借りし、手柄を立てることにより褒美を貰ったり、家臣として取り立てられることを目指した武士です。
○「知行(ちぎょう)取り」について
戦国時代の「知行取り」は、大名などの家臣として正式に召し抱えられ、一定の知行(年貢収入のある土地)や扶持(お米など)を安定して与えられる立場につくことを示しています。
○高虎の家訓
「敵をしとめる時、前に言葉をかけるべからず。刀をうちつける時、一度に言葉をかけるべし。」
(現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記記載)
○阿閉貞征(あつじさだゆき)について
浅井氏家臣。1573年、浅井氏滅亡直前に織田氏に内通していたために所領を安堵されます。しかし、高虎が阿閉家を飛び出し、磯野家へ移った時点では、まだ、浅井家臣でしたので、「味方も敵もおかまいなく、渡り歩く高虎」との表現を使っております。
○“阿閉家で報酬ゼロ”の表現に関して
高虎の目標は、安定した収入の得られる知行取りを目指していましたので、ここでの「報酬ゼロ」という表現は、「知行取りとして取り立てられなかった」ということを意味しています。もちろん、褒美などはもらった可能性はありますが、阿閉家で知行取りになったという事実は、藩史や伝記にはありません。
○「感状(かんじょう)」について
合戦に参加した武士の戦功を賞して発出される文書。鎌倉時代末から江戸時代の初めにかけて長く行われた。感状は、武士が誇りとする戦功の証明書であり、名誉のしるしでした。
○番組で使用してる感状について
番組で使用している「感状」は、戦国時代、北条氏直から家臣・宇津木氏へ出された感状で、大阪城天守閣所蔵のものです。一般的に戦国時代の感状というものがどういうものであるかを表すために使用しています。
○高虎が浅井長政から貰った感状の文面について
「城の正面で、一番に敵の首を討ち取ったこと、比類無き戦功である。」
「高山公實録」藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会 原書:伊賀市上野図書館所蔵より)
○主君が磯野員昌(かずまさ)から織田信澄に変わったことに関して
員昌(かずまさ)から信澄に主君が変わった経緯についてははっきりとしていませんが、員昌は信長のおいである信澄を養子としていたようで、員昌が、信長によって追放されたか、自らの意志で出奔し、家督が信澄に譲られたようです。譲られた月日もはっきりしませんが、今回は高虎の伝記「高山公實録」によっています。
○浪人を重ねた高虎が遺した言葉
「数年昼夜奉公しても、気のつかない主人であれば、代々仕えた主君であっても暇(いとま)をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない。」
(現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記に記載)
○羽柴秀長、織田信澄の所領について
戦国時代は、石高制をひいていませんが、今回番組で根拠としている「高山公實録」には、当時の高虎の記憶として、諸大名の大きさが石高で描かれていますので、わかりやすいように石高制で表現しています。「高山公實録」で、織田信澄(磯野員昌)の石高は6万石となっています。また、高虎が仕えた頃の秀長は、秀吉が12万石といわれる長浜城主となったあとで、およそ8千5百石を領していたといわれています。
○高虎が仕えた主君のその後について
浅井長政 1573年信長の攻撃で自害
阿閉貞征 1582年本能寺の変後、明智方につき、秀吉方に討伐される
織田信澄 1582年本能寺の変で明智方に内通した疑いで織田方に討たれる
○出世に関して高虎が遺している家訓
「侍はなるべく芸を習って、どんな道でも用に立つと覚悟すべきである。自分の働きがすぐできる。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記記載)
○「縄張(なわばり)」について
建築の敷地に縄を張って建物の位置を決めること。そこから、城などの設計などを表す言葉として使われました。
○高虎が作ったおよそ20の城について
高虎は下記城の築城、修築、縄張りなどに関わっているといわれます。
和歌山城、大和郡山城、紀州粉河城、赤木城、宇和島城、膳所城、大洲城、甘崎城、灘城、伏見城、名古屋城、今治城、丹波篠山城、江戸城、丹波亀山城、伊賀上野城、津城、二条城、大坂城、駿府城
○豊臣秀保(ひでやす)について
1579年生まれ―1594年没。豊臣秀吉のおい(姉の子)。兄は関白・豊臣秀次。叔父・秀長の養子となり、秀長死後、大和郡山豊臣家を継ぐ。1595年、十津川で変死を遂げる。死因については諸説あり、これで大和郡山豊臣家は断絶となりました。
○もめ事に関して高虎が遺した家訓について
「人の仲裁事やわび事に関わってはならない。首尾が良ければよいが、そうでないと結局自分の災難となる。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録(高虎の遺訓)」より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記参照)
○高虎が高野山へ入ったことに関して
高虎の伝記「高山公實録」には、番組中で門やご本尊を映像として使用させて頂いている「高室院(たかむろいん)」に髻(もとどり)を切り、入ったと書かれています。
○藤堂藩史に書かれている家臣たちの行動について
「公、高野山ヘ退隠ノ間百余ヶ日(こう、こうやさんへたいいんのかんひゃくよかにち)」
「家中ノ士、離散セス(かちゅうのし、りさんせず)」
意味:高虎が高野山へ籠もっていた百日あまりの間、藤堂家の家臣達はかたまっていた。
※「公室年譜略」藤堂藩初期史料 編・発行上野市古文献刊行会 原書:東京大学史料編纂所所蔵より
○高虎が遺した家訓について(家族(女房)について)
「女房に思いやりなくあたる者があるが、大いに間違っている。男を信頼して、どんな境遇になっても連れ添うほどの間柄なのだ。いとおしみ、仲良くすべきである。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
宗国史「遺書録(高虎の遺訓)」より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記参照)
○高虎が家康支持の態度を示したことについて
明確な年代はわかりませんが、秀吉の死の前後に高虎は、まだ一大名にすぎない家康に弟の正高を人質として江戸へ送っています。まだ家康の天下でもないのに、豊臣恩顧の藤堂高虎が家康に人質を送るのは、他の大名に先駆けた明確な家康支持の態度でした。
○高虎が遺した家訓について(侍の心得について)
「侍で自分の考えを固持することができない者は、ナタの首が折れたようなものである。」
宗国史「遺書録(高虎の遺訓)より(家訓を読みたい場合、入手方法などは上記参照)
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
○関ヶ原での高虎の活躍について
高虎の伝記「高山公實録」では、高虎は関ヶ原の合戦において、同郷やかつての同僚である西軍の将、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱の寝返り工作をし、成功したとあります。このことは、小早川秀秋の寝返りとともに西軍の要であった大谷吉継軍の壊滅へとつながり、戦いの勝敗に大きな影響を与えました。
○小早川秀秋、小川祐忠など家康の外様大名に対する態度に関して
小早川家は嗣子がなく廃絶、小川家は関ヶ原後、所領没収となっています。今回二人は象徴として取り上げましたが、家康は、関ヶ原後、80以上の外様大名を潰しており、その後も江戸時代前半まで様々な理由を付けて、外様大名を潰していきます。豊臣恩顧で、それまでも主君を次々と変えてきた高虎が、「家康に潰されない外様大名」となることはかなり難しいことでした。
○大坂冬の陣で豊臣秀頼から藤堂高虎宛の手紙について
「申し合わせたように、東軍を裏切ってくれれば、約束した領国を与え、その他の恩賞も望み次第とする。」
「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会 原書:伊賀市上野図書館所蔵より)
冬の陣で徳川軍に、大坂方の密使が紛れ込み捕らえられます。その密使は、豊臣秀頼直筆の藤堂高虎宛の手紙をもっていて、その手紙には上記にあるように、事前に高虎と秀頼が内通していて、高虎が家康軍を裏切る段取りであることが書かれていました。この情報に家康軍は動揺したことが「高山公實録」には書かれています。
また、これは豊臣恩顧であり、謀略家である高虎であれば信ぴょう性があると読んだ大坂方の謀略でした。高虎はこのことを大変悔しがったことが、「高山公實録」に描かれています。
○重臣二人が高虎を訪ねたエピソードについて
「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料
(編・発行上野市古文献刊行会/原書:東京大学史料編纂所所蔵より)
大坂冬の陣のあと、夏の陣の直前、高虎の元に一族であり、長年仕えてきた重臣である藤堂新七郎と藤堂仁右衛門が訪ねてきます。彼らは、大坂夏の陣を乱世最後の戦いだといい、後の世に藤堂家を残すため「この度我々は、是が非でも戦死する覚悟でございます」といいます。これを聞いた高虎は、藤堂家を思う彼らの気持ちに感動し涙を流したと記されています。
○その時(慶長20(1615)年5月6日)大坂夏の陣の藤堂軍の戦いについて
徳川軍は大坂城へ向け、二手に分かれ進軍します。藤堂軍はその一方の先ぽうでした。出発してすぐ、藤堂軍は、大坂方の主力である長宗我部軍を河内の八尾で発見します。長宗我部軍は藤堂軍の後方にある家康本陣への奇襲を目論んでいました。しかし、藤堂軍と長宗我部軍の間には大きな湿地帯が広がりもし、攻撃を加えれば藤堂軍の方が壊滅的被害を受けることが予想されました。通常ならば、後続の味方部隊や家康本陣と連絡を取り、自軍の被害が少ないように対応すべき所、高虎は藤堂軍に突撃を命じます。「八尾の戦い」といわれるこの戦で高虎は300人以上の家臣を失います。
○家康の言葉
「国に大事が起こったときは、藤堂高虎を一番手(先ぽう)とせよ」
戦国時代、戦の勝敗に大きく影響する先ぽうは、大将から信頼された武将が任せられる、重要で名誉ある立場でした。「公室年譜略」(こうしつねんぷりゃく)藤堂藩初期史料(編・発行上野市古文献刊行会 原書:東京大学史料編纂所所蔵)によると家康は晩年上記の言葉を遺したと書かれています。
○藤堂家加増の経緯について
秀吉に伊予・宇和島7万石の大名としてもらった高虎は、関ヶ原合戦の功績で家康によって伊予・今治12万石に加増されます。その後、家康によって伊勢・伊賀20万石となり、大坂夏の陣の後さらに加増され伊勢・伊賀32万石となります。
○藤堂高虎が残した家訓について
最後のVTRに出てくる高虎の言葉は全て「遺書録」のものです。
※宗国史「遺書録」(高虎の遺訓)
江戸時代に藤堂藩で編纂された史書「宗国史」(そうこくし)の中にある「遺書録」(いしょろく)に200ヶ条の家訓が書かれています。これは高虎が晩年、口伝したものを仕えていた家臣が記録したものといわれています。
「宗国史」だけの活字化された本は出されていませんが、この「遺書録」は、「高山公實録」(こうざんこうじつろく)藤堂高虎伝(編・発行上野市古文献刊行会)の中に原文を活字化されたものが書かれています。さらに、200ヶ条の家訓現代語訳したものが、三重県伊賀市の伊賀上野城において販売されています
○家臣の生活への言葉
「冬でも薄着を好むべし。
厚着を好めば癖になり、にわかに薄着になったときかじかむものである。」
○人生を感じさせる言葉
「人をだましてはならない。真(まこと)の時承諾が得られない。深く慎むべし。」
○家訓の一番最初の言葉
「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。
その覚悟があればものに動ずることがない。」
(※現代語訳、および一部意訳をしています)
○高虎の死
寛永7(1630)年10月5日死去。伝記にはその遺体は槍や鉄砲の傷だらけであったと書かれています。
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