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第262回
シリーズ
日本独立
その光と影
~吉田茂とサンフランシスコ講和条約~
<後編> |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:
昭和26
(1951)
年9月8日 |
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出来事:
吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約に調印 |
昭和20
(1945)
年8月15日、終戦。しかし、日本には「独立」のための“もうひとつの戦い”が残されていた。その陣頭に立ったのが、吉田茂。吉田は、より犠牲の少ない条件で独立する「寛大な講和」を目指す。
多額な賠償や領土割譲が強いられれば、日本は再生不能に陥るからだ。
朝鮮戦争がぼっ発し、冷戦が激化するなか、日本を西側陣営に取り込みたいアメリカは、賠償請求などがない寛大な講和条件を提示。いよいよ吉田はアメリカとの直接交渉に挑む。しかし、そこで米代表・ダレスに条件を突きつけられる。それは日本の「再軍備」要求だった。新憲法で戦争放棄をかかげた日本。しかし、この要求をのまないと講和は頓挫する。葛藤の末、吉田は再軍備を密約。これにより、講和の動きは一気に進展する。
昭和26年9月4日、サンフランシスコ講和会議の幕が開く。不参加表明していたソ連と東欧諸国が加わり、会議では東西陣営が激しく衝突。さらに、アジア諸国の日本に対する厳しい発言が相次ぐ。
しかし結果、52か国中49か国が調印し、条約は成立。日本は寛大な条件による「独立」を勝ち取った。
さらに同じ日、吉田は米軍基地に向かう。「日米安全保障条約」に調印するためだった。独立とともに、日本は「米軍駐留」「再軍備」という課題を背負うことになる。
シリーズ後編は、寛大な条件で独立を勝ち取るため、吉田が結んだ2つの条約の功罪を描く。 |
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番組の内容について
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「サンフランシスコ講和条約
(講和会議)
」「対日講和七原則」の表現について
正式な名称は「日本国との平和条約」といい、一部教科書では「サンフランシスコ平和条約」とも表現されています。
しかし、番組では、戦争状態を終結させる「講和」という意味がより伝わるよう、『国史大事典』
(歴史事例の典拠とされる辞典)
の表記を参考にし、「サンフランシスコ講和条約
(講和会議)
」という表現を用いました。
「対日講和七原則」も、「対日平和七原則」と表現される場合もありますが、同じ理由で表現を統一しました。
吉田の年齢について
満年齢で全て表記しています。
「平和条約の締結に関する調書」について
平成13
(2001)
年に外務省より公表された資料です。サンフランシスコ講和会議に至るまでの様々な資料が網羅されています。原本は一般には公開されていませんが、その全ての内容については製本・出版化されています。
「日本外交文書『平和条約の締結に関する調書』全五巻」外務省発行
神奈川県大磯にある「旧吉田邸」について
現在は一般に公開されていません。ただし、旅行代理店などのパッケージツアーで、旧吉田邸の見学会が行われる場合があります。旅行代理店などにお問い合わせ下さい。
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