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第74回
羽柴秀吉、なぞの敵前退却
~賤ヶ岳合戦-勝利の秘策
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:天正11年4月21日 |
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出来事:賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉が柴田勝家に勝利 |
織田信長が倒れた後、天下の覇権を握り新しい時代を築こうとする羽柴秀吉。その前に立ちふさがる旧勢力の代表?柴田勝家。両者は、近江賤ヶ岳で決戦する。
ほとんど裸一貫から出発した秀吉が、才能を発揮し出世できたのは、身分より実績を重んじる信長のおかげだった。秀吉は、敵前で砦を短期間に築くという知謀で、信長に認められる。信長の死後、秀吉はその遺志を継いで天下を統一し、古い慣習によらない新しい世の中を切り開こうとする。そこに、織田家の重臣で旧来の秩序を重んじる勝家が立ちはだかった。
知略によって勝家を追いつめる秀吉に、勝家は信長の妹?お市を妻とすることで対抗する。
やがて両者は近江?賤ヶ岳で対峙。互いににらみ合う持久戦の最中、秀吉は、突然敵前で兵を引き陣内をもぬ
けの殻にするという不思議な行動をとる。それは秀吉が仕掛けた巧妙な罠だった
。
天才秀吉の戦略、お市の悲劇、そして秀吉のかなわぬ恋。秀吉が新時代を築く第一歩となった賤ヶ岳の戦いの決定的瞬間を描く
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番組の内容について
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肖像の所蔵先
羽柴秀吉(干菜山光福寺:〒606‐8205京都市左京区田中上柳町56)
豊臣秀吉(逸翁美術館:〒563‐0053大阪府池田市建石町7-17)
柴田勝家?佐久間盛政(建勲神社:〒603‐8227京都市北区紫野北船岡町49)
お市の方?浅井長政?淀君=茶々(高野山霊宝館:和歌山県伊都郡高野町高野山霊宝山)
お江(養源院:〒605‐0941京都市東山区三十三間堂廻り町656)
お初=常高院(常高寺:〒917‐0055福井県小浜市浅間1)
織田信長(長興寺:〒471‐0879愛知県豊田市長興寺町1-29)
上杉謙信(上杉神社:〒992‐0052山形県米沢市丸の内1‐4‐13)
明智光秀(本徳寺:〒596‐0055大阪府岸和田市五軒屋町9-13)
足利義昭(東京大学資料編纂所:〒113‐0033文京区本郷7-3-1)
文献など
少し古いですが検証がなされているものとしては『戦史ドキュメント賤ヶ岳の戦い』高柳光壽(たかやぎみつとし)著?学研M文庫、秀吉についての読み物で賤ヶ岳の合戦周辺についても記されているものとしては『新史太閤記』司馬遼太郎著?新潮社があります。
賤ヶ岳の合戦について記されている原点としては『賤ヶ嶽合戦記』『柴田退治記』『江州余吾庄合戦覚書』『川角太閤記』『武功夜話』『秀吉事記』『太閤記』『兼見卿記』『祖父物語』を参考文献としました。その他、『信長公記』『浅井三代記』、さらに『大日本資料』を参照しました。
秀吉の出生?幼少時代?信長への仕官について
諸説が入り乱れているが、今回は『武功夜話』の記述に拠った。
墨俣一夜城
『武功夜話』の記述に拠った。墨俣一夜城については僅かな礎石しか残っていない。
番組では戦国時代の砦を再現した大河ドラマの映像を、イメージとして使用した。
小谷城跡(浅井長政とお市の方の居城跡)
JR北陸本線河瀬駅からタクシーで15分
北陸自動車道長浜ICから車で15分
石垣や城壁が残っています。建物は残っていません。
番組では小谷攻めの大河ドラマのシーンを、イメージとして使用した。
信長が戦いの手を休めお市を助けたエピソードについて
『浅井三代記』の記述に拠った。
長浜城(秀吉の最初の居城)
JR長浜駅から徒歩5分
再現された天守閣の中が長浜城歴史博物館になっています。
秀吉と勝家の陣中対立、秀吉の中国出兵について
『信長公記』の記述に拠った。
本能寺の変?山崎の合戦
『川角太閤記』、『武功夜話』の記述に拠った。
清洲城(清洲会議が開かれた城)
名鉄電車名古屋本線清洲駅より徒歩15分
JR東海道線清洲駅より徒歩15分
東名阪道路清洲東インターより車で15分
信長ゆかりの品の展示などがあります。
清洲会議
後継者を三法師に決定する過程、三法師のお披露目については『川角太閤記』の記述に拠った。
国立公文書館内閣文庫:〒102‐0091千代田区北の丸公園3‐2)
秀吉が領地長浜を勝家に譲る過程は『賤ヶ岳合戦記』の記述に拠った。
彰考館徳川博物館:〒310‐0912水戸市見川1-1251-1
秀吉に長浜城を奪われた勝家の言葉「秀吉を合戦で破ることは卵を割ることよりもたやすいのに」
『太閤記』の記述による。
柴田神社(勝家の居城だった北ノ庄城のあった所)
JR福井駅から徒歩5分
北陸自動車道福井ICより10分
勝家?お市に関する資料は、柴田神社から徒歩10分の所にある西光寺にあります。
勝家と足利義昭の接近について
吉川家文書、毛利家文書に、両者や当時、義昭を預かっていた毛利輝元、その部下の吉川元春、小早川隆景らの間でかわされた書状の記述に拠った。
書状
柴田勝家が足利義昭に宛てた書状(吉川資料館:〒741‐0081岩国市横山2-7-3。
賤ヶ岳の場所
JR木之本駅から湖国バスで5分。大音下車(山頂までリフトがあります)
賤ヶ岳古戦場&秀吉?勝家の砦跡
余呉町役場で町内の古戦場めぐりの地図やパンフレットを手に入れることができます。
古地図
戦場の砦や柵の配置が描かれている。賤ヶ岳合戦で活躍した秀吉の部下七本槍の一人、脇坂安治家に伝わったもの
龍野市歴史文化資料館:〒679‐4179龍野市龍野町上霞城128-3
秀吉直筆の書状
長浜城歴史博物館所蔵。秀吉が前線にいる弟の羽柴秀長にあてて天正10(1583)年4月3日出したもの。
勝家軍のにらみあいが続く中、秀吉 の長期戦への構えについての見解が細かく記されている。
従来の賤ヶ岳の合戦の検証には全く使われてこなかった新出の貴重な資料と評価されている。
4月5日の勝家の攻撃?撤収について
『伊藤家文書』の記述に拠った。
秀吉「我、勝てり」の発言
『太閤記』『秀吉事記』の記述に拠った。
佐久間盛政「秀吉が天魔であるにせよ鳥であるにせよ、まだここに来られるはずがない」の発言
『賤ヶ岳合戦記』の記述に拠った。
秀吉が勝家の居城?北ノ庄城の落城寸前にお市を助けようとしたエピソードについて
『祖父物語』の記述に拠った。
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