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第83回
志ある者 立ち上がれ
~獄中の出会いが生んだ吉田松陰の思想~ |
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松平定知 アナウンサー |
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番組概要
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その時:1859年(安政6年)4月7日 |
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出来事:吉田松陰、「身分にとらわれず民衆が立ち上が
るべきだ」と唱える手紙を書く |
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幕末、松下村塾を主宰し、身分の分け隔てなく個性を尊重する教育を行った吉田松陰。その教育は厳しい身分制に縛られた封建体制の中では画期的なものだった。
近年の研究では、松陰は獄中で出会った高須久子という女性に大きな影響を受けていたことが指摘されている。久子は、武士階級でありながら身分の低い者たちとつきあったことをとがめられ、牢獄にいれられた。
久子の価値観に影響された松陰は、松下村塾を主宰。高杉晋作、伊藤博文を始め、多くの個性を輩出する。
幕府を批判した松陰は再び牢獄に入るが、そこで久子と再会、「民衆こそが立ち上がり新時代を築くのだ」という考え方を手紙に記した。それはいち早く日本に市民革命の精神を呼び覚ました瞬間でもあった。
吉田松陰の、牢獄での久子とのほのかな恋を通じて、身分にとらわれない新しい時代を築こうとした、知られざるドラマを描く。 |
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番組の内容について
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年号、日付、年齢について
年月日は和暦、旧暦で統一しています。また年齢は数え年で統一しています。
今日のその時-安政6年1859年4月7日
吉田松陰が北山安世という友人宛に手紙を認めた日。松陰が「草莽崛起(そうもうくっき)」の理念を綴った日です。
「草莽崛起(そうもうくっき)」と松陰が言い始めたのは、この日が最初ではありませんが、後生に一番語り継がれ、松陰の理念が現れて、理解しやすい象徴的な日がこの日です。今日の番組のその時も以上の観点からこの日にしました。
草莽崛起(そうもうくっき)
身分を問わず、在野の志ある者たちが、新しい時代を築くために立ち上がること
松陰の遺言ー「留魂録(りゅうこんろく)」
原文は文語体で認められています。わかりやすくするため、口語訳しました。なお紹介した内容は下記のとおり「私は30歳。四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるもみ殻なのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。
もし同士の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じである」
松下村塾
松陰神社内に松陰の育った家等と共に保管されています。
なお松下村塾は松陰が始めたものではありません。
番組の中でも「始めた」と表現せず「主宰した」としています。
問い合わせ、松陰神社 0838-22-4643
高須久子
高須久子さんの存在は松陰研究において長年あまり注目されていませんでした。
近年では、VTRで紹介させていただいた布引敏夫さん(大阪明浄大学教授)や田中彰さん(札幌学院大学大学教授)の研究により、久子が松陰に与えた影響が注目されています。
今回の番組は布引さんの説を中心に高須久子さんを紹介しています。
●VTRの流れに沿った説明●
吉田松陰肖像画
所蔵ー松陰神社 0838-22-4643
草莽崛起(そうもうくっき)
身分を問わず、在野の志ある者たちが立ち上がること
吉田松陰の生まれた年月日。西洋暦で1830年8月4日です。
この年は12月10日に文政から天保に改元されました。
松陰の生まれた月は8月なので、文政13年としました。
玉木文之進は松陰の伯父です。
厳しい教育を行ったことで知られています。
黒船イメージ
松陰が兵学者に向けたことばー「不学無術のねい人」
嘉永6年9月10日 松陰の伯父?玉木文之進宛の手紙より、兵学者?山鹿素水(やまがそすい)にあてたことばです。
金子重之助
重助などの呼び方もありますが、呼び名は「吉田松陰全集」普及版を参考にしました。
下田踏海事件について
最近、松陰が「黒船に渡ったのは、留学するためでなく、ペリーを暗殺するためだった。」という学説もありますが、今回は今までの定説で紹介しています。
「三月二十七日夜の記」
所蔵ー松陰神社 連絡先は前掲
松陰がアメリカ人の船員との会話に際して残したことば「蟹文字は何事やらん読めず。」
「三月二十七日 夜の記」より抜粋
所蔵ー松陰神社 連絡先は前掲
松陰と金子重之助が萩で入っていた獄はそれぞれ「野山獄」、「岩倉獄」
野山獄は武士階級が入る牢獄で、社会から見放された者たちが入っていたと考えられています。運営資金は、親戚
や家族から徴収されていたと考えられ、規則は一般の牢獄より、緩やかだったと考えられています。
跡地が萩市に残されています。
詳細は萩市教育委員会へ T0838-25-3131
松陰が金子の死に際して残したことばー「我独り生を倫み、」「涙下ること雨の如し」
「吉田松陰全集」普及版6巻、己未文稿より抜粋
吉田松陰が入れられた野山獄に入っていた人々
大深虎之冗ー獄中生活48年、齢75才になる
富永有隣ー家族から見放され牢獄に押し込められた偏屈者
平川梅太郎ー入獄と出獄を三度繰り返している
吉村善作
ー元寺子屋の教師で在獄6年。
「吉田松陰全集」普及版「野山獄囚名」p120
より抜粋。
年齢、在獄年数は金子重之助が亡くなった年、安政2年当時に換算しました。
久子の裁判記録
「高洲彦次郎内輪乱惰一件」より
所蔵ー山口県文書館 083-924-2116
松陰が獄囚たちと接する中で感じたことば
「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし」
「吉田松陰全集」普及版「福堂策」より抜粋
久子が松陰との別れにあたって詠んだ句ー「鴨たってあと淋しさの夜明けかな」
「鴨(かも)を「鴫(しぎ)」と解釈される方もいますが、今回は「吉田松陰全集」普及版の表記、読みに従い「鴨(かも)としております」
松下村塾
松陰神社内に松陰の育った家等と共に保管されています。なお松下村塾という名前の付いた塾は松陰が始めたものではありません。松陰で三代目と考えられています。
なお現在は観光用に松下村塾の戸は開けてあります。当時は夜や寒いときは閉められていました。番組では身分に分け隔てなく受け入れたという意味で、どんな人にでも門戸を開いたという意味で「塾は開け放たれている」と表現しています。
入塾者に松陰がかけたことばー「教授はあたわざるも、君らとともに講求せん。」
海原徹著「吉田松陰と松下村塾」ミネルバ書房p161
松陰の合言葉ー「飛耳長目」
「耳をとばして目を長くする。多くの情報を入手し、それに基づいて行動しなくてはならない。」
古川薫著「松下村塾」新潮選書p104
討論に際しての松陰の心構えー「沈黙自ら護るは、余甚だ之を醜む」
海原徹著「吉田松陰と松下村塾」ミネルバ書房 p164
松下村塾の塾生ー正確には何人いたのかわかりません。
伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞、高杉晋作らがいました。
今回は前掲の海原徹さんの説を参考にしました。
久坂玄瑞肖像画
所蔵ー山口県立山口博物館 T083-922-0294
高杉晋作肖像画
所蔵ー港区立港郷土資料館 T03-3452-4966
晋作が通っていた明倫館
萩市立明倫小学校
塾生たちの晋作に対する評価ー「離れ牛」
古川薫著「松下村塾」新潮選書より
松陰の晋作に対する評価
「鴨夫後必ず成るあるなり、今、みだりにその頑質を矯めば、人とならざらん。」
「高杉晋作全集」 上巻p90より抜粋
晋作が認めた書ー「対策」
原文は漢文で認められているため、口語訳をすると共に、視聴者の方に内容を分かっていただくため、わかりやすく表現しています。
「高杉晋作全集」 下巻より
「西洋歩兵論」
所蔵ー山口県文書館ー連絡先は前掲
松陰の草莽崛起の文ー「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし草奔崛起の人を望む外頼みなし。」
「吉田松陰全集」普及版 安政6年1859年4月7日。北山安世あての文より
松陰が久子への返礼の句ー「箱根山越すとき汗の出やせん君を思ひてふき清めてん」
久子の別れの句ー「手のとはぬ雲におうちの咲く日かな」
松陰の句「一声をいかで忘れんほととぎす」
田中彰著 「松陰と久子と明治維新」NHKブックッス p198より抜粋
松陰が晋作にあてた文ー「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬ
べし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
「吉田松陰全集」普及版 安政6年7月中旬、晋作宛の手紙より抜粋
奇兵隊の写真
所蔵ー武廣恒雄
連絡先は個人宅のため掲載しません。
松陰の文書
所蔵一坂太郎
連絡先は個人宅のため掲載しません。
松陰の遺言ー「留魂録(りゅうこんろく)」
原文は文語体で認められています。わかりやすくするため、口語訳しました。
なお紹介した内容は下記のとおり
「私は30歳。四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なるもみ殻なのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。
もし同士の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じである」
所蔵?松陰神社、萩市教育委員会 連絡先は前掲
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